魔羅教指南書~クラシック中級者のためのマーラー入門


 これからマーラーを聴いてみよう、という人のためのページです。マーラーの広大で深遠な“作品宇宙”へ近づく足がかりになれば幸いです。


まず何を聴けばいい?

 なにせ聴くべきものが多いですから、まず何を聴くかは重要です。これは全く個人的な感覚から割り出した順番ですが、私は以下のような順番で鑑賞することをオススメします。

 1週目
 第1番→第2番(4楽章以降)→第5番→第6番→(大地の歌)→第9番
 2週目
 第1番→第2番→第3番→第4番→第5番→第6番→第7番→第8番→大地の歌→第9番
 3週目
 歌曲集→第1番→第2番→第3番→第4番→第5番→第6番→第7番→第8番→大地の歌→第9番→第10番

 サラッと書きましたが、これだけでもとんでもなく時間が掛かるかと思います。私は第1番から始めて第10番まで、マーラーは一通り聴いたな、と思えるまで少なくとも1年半はかかりました。

どんな曲?実際に聴いてみたい。

 第1番は入門に相応しい軽快な楽曲。トランペットのファンファーレは後の第9番でも登場します。

終楽章冒頭。爆裂的な導入。戦闘的な第一主題。


 第2番は全5楽章、約80分、合唱付きというスケールの大きい作品。初めのうちは第4楽章から聴くのが良いかもしれません。第5楽章はマーラー全作品の中でも屈指の爆裂音楽。打楽器・金管奏者(特にホルン)は必聴です。

終楽章最後の盛り上がり。歌詞と呼応するように音階を昇る合唱。「復活せよ! Auferstehn!」。ラトルの咆哮。



 第3番はマーラー最長の100分を誇ります。正直言って取っ付きにくい作品です。第1週目では大人しく飛ばすのが良いでしょう。ブラームスの第1番のパロディとも言われる、ホルン8本の斉奏で始まる冒頭部分は聴きどころの一つです。

第1楽章中盤部。狂乱の後、スネアソロだけが残る。ホルンの咆哮。ホルンの叙奏。冷徹な「冬の音楽」と陽気な「夏の音楽」が交互に訪れる。



 第4番では一転して、演奏時間50分と規模が小さくなります。ちょっと聴くとモーツァルトを連想させる軽さと明るさがありますが、内容は皮肉に満ちています道化の音楽。楽しげな響きを楽しむもよし、アイロニーに嗤うもよし。

終楽章。ゆったりとした声楽つきの楽章。メロディの一部は第3番第5楽章と同一素材。



 第5番は聴き応えがありつつ聴きやすい、第二の入門曲。5,6,7番ではベートーヴェン以来の交響曲の理想「暗から明へ」を覆すべく、音楽が展開されていきます。

第一楽章冒頭。トランペットの葬送ファンファーレから始まる。この旋律は第4番第1楽章でも見られたもの。



 第6番は“最も完成度が高い”と言われる傑作。終楽章では巨大なハンマーが、音楽を「明から暗へ」無慈悲に叩き落します。この第6番でマーラーは交響曲の常識を完全に覆しました

終楽章、ハンマーの一撃。この笑顔ったら。



 第7番は通向けの作品。メタ・ミュージック的な要素が強い作品です。1回で魅力を掴むのは難しいかも知れません。

終楽章。ティンパニの祝祭的なソロから始まる。01:44の予想外のクラリネットの和音に注目。



 「千人の交響曲」こと第8番はなんとも評価の難しい作品。ファンの間でも好き嫌いが分かれます。第二部最後の「神秘の合唱」はため息が出るほど素晴らしいです。これだけ聴くのもあり。

「神秘の合唱」。すいませんこの動画大好きなんです。


 交響曲「大地の歌」は、声楽が主体の交響曲。オペラなどに聴きなれていないとちょっと取っ付きにくいかもしれません。音楽の形式的にも、内容的にも9番への橋渡しとなる重要な作品です。

ちょっと良い動画が見つかりませんでした。シェーンベルクの室内楽編曲版。


 第9番は文句なしの最高傑作。とはいえ最初に聴いた印象は、なんかもやもやしている、といった程度かもしれません。今でも忘れません、私は鑑賞23回目で第1楽章の良さが分かりました。他の自作からの引用も多く、噛めば噛むほど味が出る作品

第一楽章。変な動画ですがこれしかないもので…。主題と動機が渾然と絡み合う。04:00あたりからが最高の聴きどころ。


 第10番は隠れた傑作。マーラーを聴きつくした人間のみがひそかに楽しむべき作品(?)。中間楽章の出来は9番に勝ります。個人的にはこの10番が最も良く聴いている作品です。ここまで来ればあなたも立派なマーレリアン。

抜粋。第1楽章冒頭~中盤、終楽章コーダ。終楽章コーダは言葉にならない美しさ。号泣です。


 歌曲作品、カンタータ「嘆きの歌」などはマーラーをもっと理解したい人のための作品という位置づけです。交響曲との繋がりを見つけることが出来るでしょう。

鑑賞に際して

 マーラーの作品は形式的に開かれています。それはつまりどんな楽しみ方も許容されているということです。通学・通勤中に聴くも良し、BGMとして聴くも良し、気持ちよくなって途中で寝てしまうも良し、好きな楽章の好きな部分だけを聴くも良し、部屋を暗くして集中して聴くも良し、解説書を読みながら聴くも良し…とにかくなんでもありです。クラシックは集中して静かな環境で聴かなければならない、という強迫観念に囚われている方もいるようですが、実際そんなこと無理です。100分近い第3番をじっと座って聴ける人間なんてそうそういません。
 まずは通学・通勤のお供として聴き始めてみるのが良いでしょう。長い長い交響曲の中に、気に入る部分が一つでも見つかればめっけもんです。まずはそこを重点的に楽しんで、飽きたら他のところを聴いてみましょう。誇張抜きに、その繰り返しで、いつの間にか交響曲全てが“好きな部分”になっているはずです。

マーラーの魅力とは?

一. 旋律の親しみやすさ

 マーラーは、ベートーヴェンやブルックナーのようなタイプの作曲家と違い、動機や主題の発展にはさして固執せず、むしろ主題それ自身の美しさを追求した作曲家です(同タイプの作曲家ではプロコフィエフやチャイコフスキーがそうですね)。
 マーラーにとって交響曲作品の霊感の源泉が、自身の歌曲集であったことからも明らかですが、主題の美しさを追求したマーラーの音楽は大変歌謡的で親しみやすいものです。この点が、同様に難解だとされるブルックナーとの大きな相違点です。「マーラーって長いし難しいんじゃないの~?」と敬遠している方も、まぁ騙されたと思って一度聴いてみてください。
 例えば第5番の第4楽章、通称「アダージェット」なんかを聴けば、その過剰なまでの甘ったるさに驚くこと請け合いです。いやはやこれのどこが難解なんでしょう。通俗的で映画音楽っぽい、と感じた方は素晴らしい感性です。ヴィスコンティは映画「ベニスに死す」でこの「アダージェット」を劇中音楽として大変効果的に使っています。



 マーラーにおける主題の親しみやすさの例を挙げていけばキリがありません。というか歌謡的でない主題は、無調的な第10番の序奏主題ぐらいなものです(それすらもコアなファンになると歌えてしまいますが)。

一. 解釈の多様性

 マーラー作品は「開かれた音楽」であるとよく言われます。鑑賞に際してでも書いたように、これは“自由な楽しみ方を許容する”ということでもあります。と同時に「開かれた音楽」であるということは、“解釈の多様性”も意味します。
 なんぞやちょっと難しい話のように感じますが、比較としてR.シュトラウスを例に考えてみましょう。彼の音楽はいわば「閉じた音楽」で、多用な解釈を拒否します。つまり、彼の作品は「アルプス交響曲」だったり「英雄の生涯」だったり「家庭交響曲」だったり、作曲者が文学的な要素を明示しているのです。音楽は文学と違い、表現されているものを特定しません。「アルプス交響曲」はそう言われなければ「エベレスト交響曲」にも「ヒマラヤ交響曲」にも聴こえるのです。「英雄(シュトラウス)生涯」はそう言われなければ、本来「私(鑑賞者)の生涯」にもなり得るし、「家庭交響曲」は「田園交響曲」にもなり得るのです。楽曲の解釈を作曲者があらかじめ指定してしまっている―無論それは悪いことではないのですが―ということは、鑑賞者の自由な解釈を妨げるということでもあります。
 その点、マーラーが標題を嫌ったことからも分かるように(6番「悲劇的」、7番「夜の歌」、8番「千人の交響曲」は彼が付けたものではありません)、彼の音楽は文学的に明示されていません。少々長いですが、彼の言葉を引用してみましょう

「ある表題(プログラム)のために音楽をつくることは愚かなことと思っていますが、同様に、ある音楽作品に、一つの表題をあたえようとするのは不十分で不毛のことだと私は思っています。ある音楽的形象に対するきっかけとなるものが、作者の体験であり、したがって、言葉で表すことができるほどにいつでも具体的なものである事実も、それを変えるものではありません。……だから、私の曲の作り方がまだ異様に思われるはじめのうちは、聴き手が旅行中にいくつかの地図や里程標を身につけていることはよいことです。……だが、説明はそれ以上のものは提供してくれません。人間は、何か知っているものに関係をもたねばなりません。さもないと道に迷ってしまいます……」
(マーラー:1896年3月26日 マックス・マルシャルク宛の手紙で)


 マーラーは彼の作品を、鑑賞者自身の体験と結びつけて鑑賞して欲しいと語っているようです。再びシュトラウスを例に考えれば、マーラーにおいては「アルプス交響曲」は「富士山交響曲」でも「北海道交響曲」でも良い、ということになるでしょう。「人間は、何か知っているものに関係をもたねばなりません」という言葉からは、「音楽は共感してなんぼだ」という彼のメッセージが込められています。正直なところアルプスなんて言われてもとんと見当が付かないし、それなら初めから「冬山交響曲」とでもしてくれた方が「あぁ分かる分かる吹雪凄いよね」と共感出来るってもんです。そしてこれは言い換えれば、マーラーの音楽は多用な解釈が可能だ、ということでもあります。そしてそれは彼の音楽が普遍的だ、ということにもなります。

一. 普遍性

 マーラー音楽の一番の魅力は、やはりこの普遍性でしょう。彼は『私はどこに行っても歓迎されない。“オーストリアにおけるボヘミア人”、“ドイツにおけるオーストリア人”、そして“世界におけるユダヤ人”だから』と語ったように、根無し草のマージナル・マンでした。そういう彼にとって、国民楽派以来のクラシック音楽における地域限定性(スメタナ『我が祖国』、ショスタコーヴィチ『レニングラード』など)は無意識の不快感を抱かせるものだったのでしょう。マージナル・マンであったマーラーの民族的な旋律は、その民族性を剥奪されています。明らかに民謡起源旋律なのに、どこの国の民謡か特定できないのです(交響曲第3番郵便ラッパソロの旋律など)。
 彼は当時としては珍しい、国籍や特定の題材に囚われない、純粋に音楽的な音楽を作曲しました。バッハを例に挙げるまでもなく、メタ・ミュージックと言っても良いような、純粋に音楽的な音楽は普遍性を獲得します。スメタナ「我が祖国」はチェコ人の第二の国歌ですが、バッハのコラールは全人類の聖歌なのです。
 マーラーはウィーン世紀末に生きたこともあり、当時の時代的な主題であった「死」と「生」を隠れたテーマとして音楽を作曲しました。それに「愛」(10番)と「自然」(1番、3番)を加えても良いかもしれません。「死」「生」「自然」「愛」…いやはやなんと普遍的なテーマなのでしょう。一体この世に生きる人間が、これらの言葉を「自分には関係ない」と切り捨てることが出来るでしょうか。
 解釈の多用性、誰もが共感出来る普遍性はマーラー音楽の最大の魅力かもしれません。

一. 引用の多さ

 マーラーは引用の多さも聴きどころの一つです。引用がなんで聴きどころ?と思うかもしれませんが、例えて言うなら寅さん第11作「忘れな草」で登場したリリーが第15作「相合い傘」で再登場したような、またはクロノトリガーで一度倒した「魔王」が後で仲間として再登場したようなもので、これは芸術作品に一般に言えることですが、「魅力的な人物(主題・動機)が再登場する」ということは鑑賞者にとってなんとも嬉しいことなのです。
 音楽における引用は小説や漫画のそれと違い、なかなか気付きにくいものです。が、それはすなわち聴いていけばいくほどに新たな引用の発見の喜びがあるということでもあります。「これはまさか!あの主題の変形では!」と気付いたときの喜びは格別です。
 引用の数はとにかく多く、ここで少し例を挙げてみましょう。

第1番のファンファーレ→第9番第1楽章
第2番第4楽章「天国にいたいと思う」という旋律→第9番終楽章
第3番第5楽章の歌唱旋律→第4番終楽章
第4番第1楽章のファンファーレ→第5番冒頭
第6番のモットー和音→第7番第2楽章
大地の歌結尾「ためいきの動機」→第9番冒頭
第2番の冒頭の低弦→第10番終楽章の低弦
第6番第1楽章「アルマの主題」→第10番終楽章

 などなど…歌曲や他作曲家からの引用も含めるとさらに増えます。またここでは同一の交響曲内からの引用は挙げませんでしたが、それも挙げれば物凄い数になります。

一. 爆裂っぷり

 マーラーはロマン派後期の作曲家とあって、巨大なオーケストラ編成で作曲しています。それだけ音楽が高潮したときの爆裂っぷりは凄まじく、マーラー好きに金管楽器奏者が多いというのも納得です。また、マーラーは打楽器奏者にとっても稀有な作曲家です。交響曲中に特大ハンマーを使う音楽なんてマーラー以外にありません(6番の動画の奏者の表情をご覧ください)。

最後に

 マーラーの作品は決して難解ではなく、親しみやすく普遍的なものです。聴きなれていかないとその長さに抵抗を覚えるかもしれませんが、聴き通す必要はなく、まずは好きな箇所だけを繰り返し聴けばよいのです。マーラーの音楽がつまらないわけはありません、私はマーラーに魅せられてこんなページまで作ってしまいました。食わず嫌いをしている方はまず一口食べてみてください。最初は苦いと感じても、味わううちに、一生手放せない嬉しい麻薬となることでしょう。




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