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マーラー:交響曲第1番


 マーラーと言う偉大なカオスに挑戦する者は、まず最初にこの第1番からその世界に足を踏み入れることでしょう。そしてマーラーの音楽の意外な親しみやすさに気付くのです。
 しかし、この第1番はその親しみやすさが“俗悪”とされ――偉大な芸術がいつもそうであるように――マーラーの生きていた当時は評価が低いものでした。クラシックとは“高尚”で“伝統的”なものであり、民謡の引用や自然音の多用、ソナタ形式の軽視は言語道断であったのです。ここら辺は音楽が多様化した現代からは中々分かりにくい感覚です。
 マーラー音楽において、この“俗悪さ”は重要なものです。主題は過剰に歌謡的であり、動機の数々は説明的すぎる…こういった音楽は、ポップス音楽のように、多くの場合薄っぺらなものになってしまいます。しかしマーラーにおいては“分かりやすさ=俗悪さ”の中にあっても、矛盾するようですが、音楽は抽象的なのです。マーラーの音楽は一見俗悪なもの集合体であり、しかしそれでいて、常に抽象的であり、多義的な解釈が可能なのです。表現されている音の形象が、無意識のレベルまで溶け込んでいる、と言っても良いかもしれません。…ちょっと話が衒学的になってしまいましたが、以下の解説がマーラー入門にふさわしいこの陽気な第1番を楽しむ手助けになれば幸いです。


曲の概要

 「巨人」の副題でも有名なこの作品ですが、この副題は後にマーラーが「誤解を招くもの」として破棄しています。この副題は、ジャン・パウルの教養小説「巨人」から取られたものです(Amazonへのリンク)。“教養小説”の名を冠するこの作品は、実に800ページ弱に及ぶ長編小説です。内容はスペインのアルバート王子が波乱万丈の人生の末に王座につく、といったもの。未読なのでなんとも言えませんが、かなり難解なものらしく、「巨人」を読みこなしたと言う事実からマーラーの文学的教養の高さを窺い知ることができます。マーラーはニーチェやゲーテの思想にも触れていましたし、かなり知的に高度な人間だったようです。
 なぜこの「巨人」が副題に用いられたかについては、マーラーがこの小説「巨人」で表現されているもの(人生における波乱や恋愛など)を交響曲として表現したからだ、という説が一般的です。とはいえマーラーが語るように、あくまで「分かりやすさ」のために便宜的に付けた副題なので、後に破棄していることを鑑みれば小説「巨人」との関連について深く考察するのはナンセンスでしょう。
 曲は4楽章形式で50分ほど。マーラーにしてはかなり短い部類に入る作品です。自由で分かりやすく、モダンな技法を駆使した野心作。後に第9番でも用いられる印象的なトランペットの「突発」ファンファーレ、4度下降のカッコー動機などなど随所に魅力ある音楽が配置されています。
 作曲当初の構成はこのようなこのような5楽章形式でしたが「花の章」は削除され現在の4楽章形式になりました。花の章は、楽譜が1968年発見されて以来、しばしば演奏されています。

第一部 青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど

第1楽章 春、そして終わることなく
第2楽章 花の章
第3楽章 順風に帆を上げて

第二部 人間喜劇

第4楽章 座礁、カロ風の葬送行進曲
第5楽章 地獄から天国へ


 なおこの第1番はマーラーの若き日の友人、ハンス・ロットの交響曲の影響が強くみられます。実際に演奏こそしなかったもの、マーラーはロットの交響曲を深く研究し、この「巨人」を作り上げる際に参考にしたそうです。ロットの交響曲も負けず劣らず魅力的なものなので、マーレリアンを自負する方なら聴いておいて損はありません。(紹介ページ

第1楽章

 コントラバスからヴァイオリンにいたる全弦楽器のフラジョレットによる音のカーテン。淡く輝くキャンバスに自然が描かれていきます。序奏からしてとてもモダン。これも初演当時は批判を受けた箇所です。再現されるべきファンファーレ動機がクラリネットによって現われます。この箇所のパースペクティヴについてはリゲティが高く評価しています(第1番の項目参考)。クラリネットによってカッコー動機も提示されます。形式的に自由な前奏の中で、曲の主要モチーフが断片的に暗示される、といった手法はマーラーの常套手段です。
 カッコーの歌をチェロが引継ぐと陽光の草原を散歩するように朗らかな第一主題。これは「さすらう若人の歌」第二曲「朝の野を歩けば Ging heut' morgens übers Feld」ほとんどそのままの引用。歌詞は自然を賛美する陽気なもの(Wikipedia)。音のカーテンが戻ってくると展開部。序奏同様、断片的に第一主題やカッコー動機が現われます。「引きずるように」音楽は流れ、コラージュ的に主題らしきものが歌われる。カッコーの声が闇を取り払うと、ホルンが牧歌的な主題を奏で、第一主題が柔らかに戻ってきます。和やかな雰囲気を一方で保持しながら、音楽は切迫していく。警告音のようなヴァイオリンを受けて、音楽が強かに膨張すると、トランペットによるファンファーレ。2つの要素が火花を散らして融合される、圧倒的な破壊の美。この箇所は第4楽章でも再現されます。
 冒頭からここまで暗示され続けてきたファンファーレが、その本来の姿を提示すると、喜びに満ちた再現部へ。第一主題が一通り歌われると、4度下降のティンパニがユーモラスに幕を閉じる。

第2楽章

 マーラーの交響曲には配置され、重要な意味を持つスケルツォ楽章。しかしこの時点ではスケルツォ楽章の意味合いはまだ薄い。第一主題は初恋の相手と言われるヨゼフィーネ・ポイスルに捧げた歌曲「草原の五月の踊り」からの引用です。この「草原の五月の踊り」は後に、恋愛関係にあったヨハンナ・リヒターに捧げたとされる歌曲集「若き日の歌」の第1集第3曲に、「ハンスとグレーテ」とタイトルを改めて収録されています。2人の愛した女性に捧げた旋律が引用されていると言うわけです。なお第一主題はハンス・ロットの交響曲ホ長調第3楽章第一主題からの引用とも考えられます。
 形式はABA(第一主題―第二主題―第一主題)の三部形式。第二主題は影が差したようなワルツ。さっと聴き流すことも出来ますが、よく聴くと異化要素たっぷりでグロテスクです。

第3楽章

 葬送行進曲。この楽章も多大な批判を寄せられました。批判を覚悟してか、マーラーは初演の際に入念な解説を残しています。

  この楽章の着想を作者が得たのは、南ドイツのごく小さな子供でも知っており、『狩人の葬式』と題されている一枚のもじりの版画を介してであった。森の動物たちが死んだ林務官の柩に付き添っている。野うさぎたちは弔旗をかかげ、先頭にはネコやフクロウやカラスの楽師たちをしたがえたジプシーの楽人が一隊が歩む……。シカや小ジカやその他の獣や鳥といった森の住人たちが、もったいぶった顔つきで葬列に従っている。この楽章は、あるときは皮肉たっぷりに快活で、またあるときは落ち着かない雰囲気のものだが、ただちにある傷ついた心の最も奥深いところでの突然の表現である最終楽章『地獄から天国へ』につづいている……

 当初は「座礁、カロ風の葬送行進曲」と名づけられていた楽章です。カロは17世紀の銅版画師。

カロの作風は“怪奇”。実にマーラー的。
      


 ティンパニの伴奏に乗るコントラバスの主題は俗謡「マルティン兄ちゃん」の引用。フランスでは「鐘が鳴る(フレール・ジャック)」として親しまれています。幼少期に歌ったことがある人もいるかもしれません(MIDIリンク)。こうした俗なものが交響曲に溶け込むことを、当時の人々は許せなかったのです。
 第一主題は原曲と同様、カノン(輪唱)形式で歌われます。オーボエが揶揄するような対旋律を奏でます。このような“主題のからかい”もマーラーの作品に多く観察できるものです。一旦音楽が沈み込むと、オーボエによる哀愁を帯びた主題が提示され、シンバルとバスドラムが軽薄な、まるで遊園地のような雰囲気に。目まぐるしく雰囲気は変わります。こうした夢のような荒唐無稽さは、しばしば「マーラーの音楽は分裂症気味だ」と評価されます。
 ハープがリズムを刻むと、中間部。「さすらう若人の歌」第4曲「恋人の青い瞳」が引用されています。菩提樹の下に寝そべり、失った恋人への思いを馳せながら、花に埋葬されるという耽美的な歌詞(歌詞はこちら)。個人的にはなぜか坂口安吾「桜の森の満開の下」なんて作品が連想されます。
 死の楽器タムタムが鳴り響くと、弔辞が唱えられ、再現部に入り葬送行進曲が戻ってきます。“からかい”は楽器を増やし、よりアイロニカルな表情は強くなります。倍音を豊富に含むシンバルが拡散し消えていく。この部分も恐らくリゲティ好みでしょうね。

第4楽章





 シンバルの一撃で始まる劇的な序奏。オーディオで聴く場合は音量に注意しましょう。戦闘的な第一主題が提示されます。音楽が一旦落ち着くと女性的な第二主題。男性的なるもの(第一主題)と女性的なるもの(第二主題)の対比と拮抗も、マーラー作品に定番の構成です。
 第一主題が爆裂すると、展開部。輝かしい終結部の先取りと荒れ狂う第一主題の拮抗。華々しく勝利が歌われるが、ここではまだ達成されず、消えていってしまう。ここにきて第一楽章の序奏が回帰します。遠くから聴こえるファンファーレ(距離感に注目!)、カッコー動機がおぼろげに暗示されます。音のカーテンは背景に周り、ここまでの音楽がより鮮やかに回顧される。第二主題が頂点を築くと、ヴィオラが警告的な動機を発し、予期された第一楽章のファンファーレが再現される。シンバルの合図で、ついに金管楽器がファンファーレの真の姿を披露する!祝祭的な雰囲気のまま、展開部で暗示された勝利がここでは何人にも邪魔されずに達成される。歓喜の大音響の中、カッコー動機が叩きつけられて終わる。






 マーラー作品の特徴に“動機の変容”が挙げられます。例えば第1番においては、序奏で暗示されたファンファーレ動機、カッコー動機が終楽章において、より高次に変容され、昇華されるのです。4楽章結尾のカッコー動機はもはやその元来の「カッコーの鳴き声=自然音」という意味を留めていません。とかくマーラーの作品は難しいとされがちです。こうした動機の変容に注目することは、内的プログラムを理解するきっかけになるかと思います。
 しかし、第1番は短いこともあり、後期の作品に比較すると、まだまだ深遠な内的プログラムを備えているとは言えません。第6番以降の深淵は、人生、あるいは世紀単位で楽しめる広大な宇宙です。この第1番を入門として、マーラーの深遠を覗き込む仲間が増えれば幸いです。


参考文献:
 ・Wikipedia - 交響曲第1番
 ・村井翔「マーラー」 ISBN:4276221889
 ・音楽之友社 マーラー ISBN:4276010411
 ・音楽之友社 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲 ISBN:4276130727



お勧めのディスク


バーンスタイン@ACO
★★★★★

警告の中ファンファーレが爆発する箇所のマッス(質量感)が素晴らしい。ほとんど粘土のごとき吸着力。


追加予定。


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