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マーラー:交響曲第10番 〜アルマへの愛〜


 マーラーの交響曲第10番は、おそらく2007年の現時点で、もっとも不当に価値が軽視されている作品でしょう。
軽視の由来は、もちろんこの作品が未完成に終わったからですが、その前提、「未完成である」という内容に重大な誤解が含まれます。「未完成」という言葉からは、シューベルトのそれのように交響曲の形式として不完全な程度の「未完成」が想像されます。しかしこの第10番は、第1楽章はマーラーの手によって完成され、あとの楽章はそのほとんどがパルティチェル(断片)として残されています。ということはあとはパルティチェルをつなぎ合わせ、オーケストレーションを施すだけで、第10番は完成していたのです。それを「未完成」と言うのは意味が強すぎるでしょう。現にクックによる補筆完成版、またさらにカーペンター版の演奏などを聞けば、10番が未完成ではないことは明らかに聴き取れることでしょう。
 10番はマーラー作品の中でもっとも感情に溢れた作品です。死への諦念、激情、憎悪、アルマへの愛、寛容…マーラーが眼前に生きて語っているかのように、感情の奔流を聴き取れることでしょう。そして9番同様、その感情は普遍的で多義的なものです。生前、マーラーは10番の楽譜の公開に関してアルマへ「捨てても良いが、必ず目を通してくれ」と言い残したと伝えられています。この10番はアルマへのメッセージという側面が強くあります。しかし、そのように極めて私的な内容ながらも、共感し、感動することができるのです。描かれているものは普遍なのです。今までなんとなく避けてきた方もこれを機会に是非聴いてみてください。必ずや感動することでしょう。

マーラー:交響曲第10番 抜粋

03:09から第5楽章のフィナーレ再現部へ。



第1楽章

 憂鬱な、ほとんど無調音楽のごとき第一主題による導入。シェーンベルクらによる調性の破壊の一歩手前まで、マーラーは登りつめたのです。この主題は、第5楽章での“カタストロフ”の後に、思い出したかのように再現されます。是非注意して聴いてみましょう。なおこの主題は“ジークフリートの主題”との近似性が指摘されています(他にもトリスタンとイゾルデ「牧童の笛」の引用、とする説もあります)。マーラーがジークフリートになぞらえて何を言おうとしたのかは難しいですが、引用云々はさておき個人的にはこのメロディから“諦め”を感じ取れるような気がします。「この世の一切は無常である!」と言い切ったショーペンハウアー、ニーチェ風の厭世観(読書人であったマーラーはショーペンハウアー、ニーチェを愛読していました)が反映されている、と考えられるでしょう。「無常の主題」と名づけても良いかも知れません。
 導入を超えると、アーチ上の幅広い第二主題が現れます。第9番第4楽章と雰囲気が似ています。包容力のある実に感動的な主題です。次に音楽はからかう様な木管のトリルが印象的な、皮肉な調子を含んだ第三主題へと移ります。このような半ば自虐的な皮肉は、マーラー作品にしばしば見られる要素です。「私はどこに行っても歓迎されない。“オーストリアにおけるボヘミア人”、“ドイツにおけるオーストリア人”、そして“世界におけるユダヤ人”だから」というのはマーラーの言葉です。根無し草、マージナル・マンであった彼には、抗うことの出来ない劣等感に基づく自虐性が根付いていたのかもしれません。
 第二主題・第三主題が繰り返され、時にもつれ絡み合い、音楽は進みます。「音楽に全く同じ繰り返しはありえない」とマーラーが言ったように、繰り返されるたびに音楽は変容し、高揚していきます。
 一度収束へ向かうと、突如音楽は爆発します。こうした無秩序の「突発」もマーラー作品では良く見られます。話はそれますが、ロマン派、古典派などの音楽は非常に形式的です。ベートーヴェンの交響曲は完全な形式美を持っており、その建築的な美しさが彼の音楽の一つの魅力です。が、形式主義は眠くなるんですね。展開を追うのに疲れるわけです。しかしその点、マーラーはこの「突発」のように形式を無視します。無秩序な「突発」で目を覚ましても、音楽は楽しめるのです。むしろそうでもなければ、なかなか100分近い交響曲を聴き通せません。途中で集中力が途切れてもマーラーは楽しめる、このことはマーラーを鑑賞する上で知っておくべきことでしょう。究極、ちょっと寝ても良いんです。楽しみ方は十人十色の千差万別、マーラーの音楽は、決して敷居の高いものではないのです
 「突発」の後、一瞬だけ皮肉な調子の音楽が挿入されると、通称“カタストロフ”が訪れます。ここは第10番の聴き所の一つです。当時の音楽理論ではありえない、強烈な不協和音の集積はクラスター音楽の先駆けとも捉えられます。破壊的な和音の渦の中で、トランペットのA音だけが持続して叫び続けます。このA音は当時関係が破局状態にあった妻アルマ(Arma)を表していると考えられ、アルマへの叫びと捉えられます。この“カタストロフ”部分には強烈なアルマへのメッセージが込められているわけです。
 アルマへの叫びを終えると、音楽はこれまでの主題を振り返りながら、神秘的な安息へと向かいます。

第2楽章

 リズムの崩壊と名高い「春の祭典」に先駆ける、変拍子の嵐で始まる第2楽章。マーラーはソナタ形式をぶち壊し、ワーグナーとともに無調音楽の扉も開きましたが、リズムに関しても当時の常識を覆しています。
 このスケルツォ楽章も2つの主題が交互に変奏、または相互に融合される形式を採ります。終盤部の底抜けた明るさは、マーラー作品でも他に類を見ないもの。第9番第3楽章の自虐的な明るさに近い性質を持ちながら、さらに底抜けた、自虐を超えた明るさを感じることが出来ます。第1番以降皮肉な形で描かれてきた「現世の歓喜」を、ついにここで、肯定的な形で表現しているのでしょうか。

第3楽章

 10番の鑑賞において重要な「サロメ」動機が現れます。これはマーラーの知己であったR.シュトラウスの歌劇「サロメ」から引用されている動機です。「サロメ」はファム=ファタル、すなわち人生・世界を狂わす宿命の悪女を意味します。これがアルマを表す主題と重ねられることによって、アルマ=サロメの縮図が描かれるのです。浮気をしたアルマへの痛烈な批判ですね。「サロメ」動機は刺すような凸型の音符3つの動機です。これはこの楽章の後にも頻繁に登場します。
 マーラーはこの楽章に「プルガトリオまたはインフェルノ」との標題を書いたのですが、現存する楽譜では標題の下が切り取られています。10番の楽譜を公開したのは妻アルマであり、おそらく切り取られた部分にはアルマにとって不都合な書き込みがあったのでは、と考えられています。
 マーラーの作品では例外的な短さの楽章であり、存命だったら加筆がなされていたと考えられています。音楽的な繰り返しを暗示させる箇所もあり、マーラーが描いたであろう繰り返しの再現に挑んだ学者もいましたが、やはりマーラー特有の有機的な発展は再現出来なかったようです。
 両端部の主題は、子供の不思議な角笛の『地上の生活(この世の生活)』によっています。第4番で成しえなかった「地上の生活」の交響曲化が、遠く、この10番でついに果たされるのはなかなか感動的な事実です。

第4楽章

 スケルツォとは明記されていませんが、この第4楽章も形式的にスケルツォ楽章と言えるでしょう。マーラーはこの楽章の最初のページに「悪魔が私と踊る。狂気が私にとりつく」と書き込んでいます。第3楽章の「プルガトリオまたはインフェルノ(地獄)」を超え、音楽はより一層グロテスクに、病的に変容していきます。
 この楽章も2つの主題が交互に展開される形をとります。随所で「サロメ」動機が聴こえます。
 終盤部は次第に収束していき、ティンパニ、シンバル(小太鼓)、ベース・ドラムが残り、最後に「完全に消音した」ミリタリー・ドラムの一撃が響きます。この部分の楽譜には「さようなら!私の竪琴!」「これが何を意味するかは、君だけが知っている」と書かれています。
 この部分についてはスコア公開当初謎とされていましたが、今ではアルマの回想記からその含蓄が明らかになっています:


「セントラルパーク沿いの大通りが騒がしい。窓から乗り出してみると、下は黒山のような人だかりがしている。葬式だった―行列が近づいてくる。そういえば新聞に、消防士が一人火事で殉職したという記事が出ていた。(中略)挨拶の後ちょっと間をおいてから、おおいをかぶせた太鼓が一つ鳴った。あたりは水を打ったように静まり返る。やがて行列は動き出し、式は終わった。この風変わりな葬儀を見ているうちに、わたしの目には涙が溢れてきた。おそるおそるマーラーの部屋の窓のほうをうかがうと、彼も身を乗り出していて、その顔は泣きぬれていた。このときの光景は彼によほど深い感銘を与えたと見えて、のちに彼はあの短い太鼓の響きを第10交響曲のなかで使っている。」
(アルマ:「回想」《酒田健一 訳》)


ミリタリー・ドラムを通してアルマとの想い出を語っているのです。しかしその想い出は、見知らぬ消防士の葬儀という楽しからぬもの。悲劇的なスケルツォ(諧謔曲)です。

第5楽章

 私はこの楽章こそがマーラーのすべての楽曲の中でもっとも美しいものだと感じます。
 音楽は全楽章からattaccaで切れ目なく続きます。サロメ動機を変形させたチューバの導入、全てを打ち壊す鉄槌のごときミリタリー・ドラムの打撃。旋律は地獄の釜の底から、もがき、這い上がろうとするも、あえなく悪魔に蓋をされてしまう。
 ホルンが上行形を唱えると、フルートによる絶美のソロ。……言葉はもう意味を成しません。この旋律の美しさは是非身をもって感じてください。1910年8月17日付けにアルマ宛に書かれた詩との関連をピーター・フランクリンが著書「マーラーの生涯」のなかで指摘しています。

私は全ての歓喜と
聖なる至福の無限性を
君の胸に集め
太陽が空に会釈するとき
君の優しさにもそれが及ぶような
一つの旋律を作る


 この「旋律」がまさにこのフルート主題なのではないでしょうか。ピーター・フランクリンは、同時にマーラーのこのような詩も引用しています。同じく死の前年に書いたもの。

私の愛しい人よ
私のリラよ
私にまとわりつき、地面に叩きつける暗黒の魂を追い払ってくれ
私の支えよ、私と共にいてくれ
私が起き上がれるよう、今日は早く来て欲しい
私はそこに横たわりながら町
まだ罪を贖うことができるのか
それとも呪われているのか
口を出さずに尋ねている


 「私にまとわりつき、地面に叩きつける暗黒の魂」という句は、まさにこの楽章の死のミリタリー・ドラムを表しているようです。あまり詩に執着するのも良くないことですが、マーラーが人生の終末期に抱いていた感情を、詩を通して間接的に知ることは音楽の理解を深めることになるでしょう。
 フルート主題中の流れるような5連符は、交響曲第3番終楽章、「大地の歌」終楽章でも類似の動機が現われています。作品間の連関は第10番に至っても無論失われていません。
 音楽は不安な様子で、かつ希望を抱き、上へ、上へと上昇していきます。しかし、「サロメ」動機とともに絶望の打撃を受け、あえなく沈み込んでしまいます。その間隙から湧き上がるように、サロメ動機を伴う諧謔的な動機が訪れ、次に第6番第1楽章「アルマの主題」に似た、跳躍的で幅広い主題が歌われます。裏では嘲るようなサロメ動機が聴こえます。「アルマ=サロメ」の縮図がここで告発されていると考えられます。音楽が進むにつれて、フルート主題がホルン・弦によって再現されますが、唐突にサロメ動機がクラリネット・フルートで介入します。実にグロテスクな箇所。
 様々な楽器によるサロメの嘲りにも負けず、音楽は上層へと進み、ホルンに導かれトランペットがフルート主題を歌います。時間的にはわずかですが、天国的な美しさをたたえる名場面です。しかし再び「アルマ=サロメ」が提示され、ダメ押しに“カタストロフ”が再登場します。ここでの再現にはサロメ動機も加わっています。1楽章同様、A音は持続的に叫びます。マーラーによる最後の告発。
 カタストロフが終わると、ここにきて交響曲冒頭の主題がホルンによって再現されます。この部分はなかなか謎に満ちた部分です。なぜ告発の直後にこの主題が帰ってくるのか?ホルンで再現される点も含めてジークフリートとの類似性が指摘されるが、その意味は…?
 個人的な解釈を述べると、この主題はやはり厭世的な「無常の主題」でして、マーラーはここで「私はもうこの世からいなくなるし、所詮世の中は無常なんだ。そう考えればアルマを憎むことなんて不毛じゃないか。」と自身を「無常観」によって納得させ、アルマへの憎悪を消し去っているのではないかと私は考えています。激高した憎しみを一旦鎮めると、浮かび上がってくるのは過去の幸福な日々です。それゆえこれ以降は「許し」や「救済」を連想させる肯定的な音楽になっているのはないでしょうか。
 冒頭主題の再現を終えると、ヴァイオリンによってフルート主題が再現されます。少々の悲壮感を漂わせながらも、次第に音楽は喜びに満ちていきます。一度落ち着いた後の、低弦の一撃(クック版)で始まる再現主題は本当に美しい。神聖で悲痛な不協和音、暖かな包容力。雰囲気は9番4楽章終盤に似ていますが、より「許し」を感じます。音楽が消えかけると、突如13度に及ぶ大グリッサンド。大きく上昇した音は、大地の歌以降に見られた2度の下行音形、通称「ため息の主題」で羽毛のようにゆったりと舞い降りフェードアウトしていきます。Ewig, Ewig,....
 なおミリタリー・ドラムの打撃数は「13」回、最後のグリッサンドも「13」度であることから、マーラーは「13」に何らかの意味を持たせたと考えられます。一般的に「13」は、キリストと12使徒を足した数、13日の金曜日、13階段などから「死」「不吉」「処刑」「裏切り」などのニュアンスを持ちます。とするとマーラーはアルマの不倫、すなわち「裏切り」を13という数字に込めたのではないか。しかしそれでは終楽章の救済的な雰囲気や、最後の13度のグリッサンドの穏やかさが理解できない…。
 しかし、この文章を書くために大いに参考にさせて頂いた名著、村井翔「マーラー」を読んで、私なりにマーラーが「13」に込めた意味を理解しました。同著からの引用ですが、マーラーが死の直前1910年8月27日にアルマへ贈った詩にこのようなものがあります。

世の闇は力強い一言に吹き散らされ
衰えを知らず胸をえぐる苦悩も止む
僕の臆病な思考とたえぎる感情は
ただひとつの和音へと流れ込む


君を愛す!これこそ僕の讃える強さ
苦痛のなかで勝ち得た生命のメロディ
おお、僕を愛せ!これが僕の知る英知
その上で、かのメロディを僕に響かせた基音


君を愛す!これが僕の人生の意味となった
世界も夢も眠って忘れてしまえるなら、なんと幸福なことか
おお、僕を愛せ!嵐のなかで勝ち得た君
幸いなるかな―僕はこの世では死に―そして港に着いたのだ!



 アルマに浮気されようが裏切られようが、これがマーラーの10番にこめた一番の思いでしょう。13の意味するものは、マーラー自身の死。13度のグリッサンドから流れ込む救いに満ちたメロディは、まさにこの詩の最後の一言を表しているように感じます。

 無論、繰り返し主張しているように、マーラー音楽の魅力は解釈の多様性です。それは10番に関しても同じです。例えば、「アルマ=サロメ」の告発はより普遍的な“人間の中の悪”と捉えてもいいでしょう。それはたまたまアルマの中にあるだけで、普通の人々の中にも、自身の中にすら存在するものです。その普遍的な悪がついに死によって克服される。マーラーが第2番で唱えた「蘇るために死ぬのだ! Sterben werd ich, um zu leben! 」という言葉を思い出させます。エロースは死んだ、いざ生きめやも。

 10番はまだまだ謎に満ちている曲です。しかしそれゆえに解釈の楽しみは広がるのです。是非あなたの10番論を形成してみてください。


参考文献:
 ・Wikipedia - 交響曲第10番
 ・Wikipedia - Symphony No. 10 (Mahler)
 ・村井翔「マーラー」 ISBN:4276221889
 ・音楽之友社マーラー ISBN:4276010411



お勧めのディスク


インバル@フランクフルト放送響
★★★★☆

入門盤にふさわしい端正な美しさ。癖のある箇所もありますが、流石インバル、説得力があります。最後のグリッサンドに度肝を抜かれます。廉価版ですし、マラテンマニア必携の一枚。


ザンデルリンク@BSO
★★★★☆

ベルリン交響楽団というと間違えがちですが、べルリンフィルではなく、ベルリンシンフォニカーの方です。こちらも入門盤にふさわしい。感情的にならずに厳格で深みのある演奏。


リットン@ダラス響(カーペンター版)
★★★★☆

こちらは一般的なクック版ではなく、カーペンター版を使用。ハーモニーの増強に加え、他作からの引用などを加えた編曲版。よってある程度の(かなりの?)ごちゃごちゃ感は否めないのですが、なかなか面白い演奏です。特筆すべきはミリタリー・ドラムの音色の素晴らしさ。鳥肌がゾッと立ちます。太鼓だけなら★★★★★。また、フィナーレの編曲は実に感動的に出来てます。


オーマンディ@フィラ管
★★★☆☆



オルソン@ポーランド国立放送響(フィーラー版)
★☆☆☆☆
NAXOSから1,000円で出ているので購入するも後悔。フィナーレのテンポが絶望的に気に食わない。他の箇所もカーペンター版のような面白さがあるわけでもなく、かと言ってクック版のような落ち着きがあるわけでもない。非常に曖昧な印象を受けます。演奏がイマイチなのも一つの要因かも知れませんが、残念ながらこの編曲は10番の魅力を引き出しているとは言えないでしょう。



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