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マーラー:交響曲第9番 ~全人類普遍の交響曲~
第9番をマーラーの最高傑作として挙げるマーレリアンは非常に多く、わたしもその一人です。
示唆に富む、シェーンベルクの発言を引用しましょう。
彼の第九はきわめて異様です。そこでは作者は、もはやほとんど個人としては語っていません。この作品にはマーラーを単なるスポークスマン、代弁者として利用している隠れた作者がいるに違いない、ほとんどそう思われるほどなのです。作品を支えているのは、もはや一人称的なトーンではありません。この作品がもたらすのは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感を覚える人間にしか見られないような種類の、美についてのいわば客観的な、ほとんど情熱を欠いた証言です。
わたしは芸術の本質を「宇宙の法則の人知による再現」だと考えています。それは抽出する能力ともいえるでしょう。人類に普遍的な感情・現象・法則を表現した芸術は、大きな感動を呼び起こすのです。マーラーは対象を抽出する能力に優れていましたが、抽出対象は音楽自身(メタ=ミュージック)であったり、過去の“伝統”、美化された自然が主でした。抽出の方法も、概ね皮相な抽出であり、宇宙の法則の抽出、とまではなり得なかった。交響曲の伝統を破壊しつくした7番の後、マーラー作品はより普遍的なものを抽出するようになったと感じます。人類普遍の「永遠に女性的なるもの」への憧れ、中国古典から引用した人類普遍の運命…しかし、8番、「大地の歌」においてはどこか他人行儀で、あくまでマーラー個人の作品という色合いはまだ強いのです。これはマーラーの力不足ではなく、どれだけ優れた表現者であろうとも、いやむしろ優れた表現者であればあるほど、普遍の抽出の際には個人が入り込んでしまうのです。
ここでシェーンベルクの言葉に続きます。彼をして9番が異様だと言わしめているのはまさにこの点、普遍を表現しているはずなのに、個人が紛れ込んでいない。冒頭の「不整脈」のリズム動機、過去の自作からの引用など、視覚的・論理的には紛れも無く“マーラー”が色濃く反映されている作品なのですが、実現される音楽には何故か、マーラーは不在なのです。
なぜこの作品、また後の10番がこれほどまでに普遍的なのかは、正直なところ分かりません。…死を目前にして、神が天啓を与えた?いや、すでに神という概念すら超越している…うーん。
曲の概要
まず払拭しておきたいのは、いまとなっては“神話”となった「マーラーが第九のジンクスを恐れていた」という話。もともとは老齢の妻アルマが、意図してか無意識にか、回顧録の中にこういったエピソードを
残したことが原因。大芸術家を神話化してしまう衝動が働いたのでしょう。アルマは勿論、われわれにも。
また、作曲中に完成後すぐに訪れる死を恐れ、それが作品に色濃く反映されている、といった話も、村井翔氏をはじめとする研究者の功績により、今では神話となりました。すなわち9番の作曲時点ではマーラーは健康であり、個人的な死への恐れはまだ無かった、と考えられています。そもそも世紀末ウィーン芸術の特徴的な主題は「死」です。ベックリンの作品の退廃的な死と同様に、マーラーは「死」を表現したのでしょう。
第1楽章
序奏はわずかですが、非常に密度の高いもの。チェロとホルンによる、バーンスタインの言うところの「不整脈」のリズム動機、後に葬送の鐘として再現されるべきハープの鐘動機、ゲシュトップト奏法のホルンによるファンファーレ動機、ヴィオラの憂鬱な六連符動機、これらの断片的な動機は後に有機的に絡み合う形で再現されます。「生」の象徴である第一主題は「ため息の動機」に基づくもの。単なる長二度の下降なのですが、マーラー作品では多様な意味を持ちます。数例をあげれば、大地の歌終楽章の最後の句「ewig(永遠に)」、第3番第4楽章「Gib Acht!(心して聴くが良い!)」、第10番終結部、などの部分でこの長二度の下降が使われています。また『大地の歌』、との関連で考えれば、第9番は大地の歌が終わるところから始まっている、といっても良いでしょう。マーラー研究の第一人者アドルノによればこの第一主題は「楽章全体は一小節ごとに新たな語りだしになろうとするが、一小節ごとに語りは少しつかえながら進み、語り手のつらそうな息づかいを伴っている」。
ホルンの呼び声で不穏な短調へ転じると、不吉な第二主題。これは「死」の象徴と捉えてよいでしょう。ファンファーレ動機が爆発すると、第一主題が変形されて帰ってきます。二度だった「ため息」は、九度の下降へ。より切実な様子を帯びます。不穏な六連符動機を交えながらも第一主題はゆったりと、少し憂鬱に、穏やかな調子で進んでいく。第二主題が帰ってきますが、変形された第一主題がポリフォニックに同時進行しています。音楽はかなりカオティック。
トランペットが爆発すると展開部。リズム動機、鐘動機が再現されます。ティンパニの刻むリズムは葬送行進曲調。無調的な空気の中、次第に序奏の雰囲気が戻ってきます。ここの部分の変形第一主題には、ヨハン・シュトラウス2世のワルツ『人生を楽しもう』が引用されます。(自筆譜のこの部分には「おお若き日! 消え去ったもの! おお愛! 吹き消されたもの!」と書き込まれています。
第1番「巨人」で見られたあのファンファーレが現れると音楽は頂点へ駆け上がります。ここまでに現れた主題・動機がコラージュ音楽のように絡み合います。圧倒的なのはヴァイオリンによる叫びのようなファンファーレ動機に、ティンパニの鐘動機が重なる部分。生と死の、恐るべき拮抗!一瞬の煌めき!
突如音楽は崩壊し、再び第二主題が主体となり、混乱しながら展開していきます。様々な半音的な動機によって、迷いつつ、探るように音楽は第一主題の雰囲気を取り戻していく。しかし牧歌的雰囲気はすぐに中断され、テンポを増し、弦楽器がざわめき、緊張し、再びカオスへ。トランペットが叫び感動的な頂点を築くと、突如急降下。トロンボーンが死のゴングとともに「最大の暴力で(mit höchster Gewalt)」鳴らされる!ファンファーレとともに鐘動機が様々な楽器で再現され、葬送行進曲風になると、ついに鐘動機は追弔の鐘の姿を露呈する。
第一主題が優しく帰ってくると、不協和音、崩れるようなリズムを伴いながらこれまでの音楽が回想されます。各楽器によるカデンツァを挟むと、第二主題が現れるが、もはや拡散して原型をとどめていない。音楽はスピードを落とし、ほとんど室内楽的な、静寂に満ちたアンサンブルへと移行する。…崩壊を終えて、平和が訪れた、わたしは眠ろう…。
第2楽章
マーラーによるコラージュ実験音楽。以下の音楽が不規則に、ABCBCABAと展開されていきます。通常のロンド(輪舞)形式とは似ても似つかない。スケルツォ楽章といっても過言ではない。
A:トリルを伴う民族的な舞曲。不吉な感じをどこかに漂わせる。
B:活気のある諧謔的なワルツ。後半での再現はやけくそ的な表現。
C:ゆっくりとしたレントラー。「ため息の動機」を含む。
前楽章でソナタ形式を崩壊させたマーラーは、もう一段階実験的な音楽を作曲しているわけです。
第3楽章 「ロンド・ブルレスケ」
Burleskeは「道化」の意。様々な旋律が複雑に絡み合う、混乱に満ちた超絶技巧スケルツォ。ABABCAというロンド形式です、が、この楽章をしてそういった分析をするのはあまり的を得ていないでしょう。なお曲中にはレハールの「メリー・ウィドウ」の中の「女の研究は難しい」というアンサンブルが引用されています。アルマを皮肉っている、というのは考えすぎでしょうか。
シンバルの一撃によって美しい「一時止揚 Suspension」が生じます。この中で第4楽章で使われるメロディを先取りしていますね、2、3楽章と来て久しぶりの美しい瞬間です。音楽は頂点の一歩手前で下降グリッサンドし、先取りした旋律が皮肉に繰り返される。冒頭のAが一瞬帰ってくるが、音楽は第4楽章の美しさを湛える。再びAが暗示されると、クライマックスまで狂乱が突き進む。終盤の病的な高揚感はマーラー作品で屈指のもの。第10番第2楽章も似ていますね。
第4楽章
この楽章がために、9番は最高傑作となっているのでしょう。悲しみ、慰め、諦め、喜び…音楽による人生の縮図です。
苦痛に満ちた序奏に導かれ、二度下降の「ため息の動機」を持つ第一主題が提示される。第3楽章で先取りされたメロディも加わります。8小節目のフレーズには第2番「復活」第4楽章「原光」の「je
lieber moecht im Himmel sein! むしろわたしは天国にいたいと思う!」の部分が引用されていると考えられます。厭世的なファゴット(このオーケストレーション!)のモノローグをはさみ、第一主題が変奏される。決して饒舌ではなく、訥々と切実に語る。もはや“つらそうな息づかい”は感じられない。内的な感情の爆発を迎えると、再びファゴットのモノローグ。弦が静かに、孤独に来た道を振り返りながら歌う。ホルンが大きく呼ぶと、ビロードのように重々しく第一主題が舞い降りる。うねるように感情を滾らせ、ベースドラムの地響きのようなトレモノで頂点を築く。ヴァイオリンが静かに長い道のようなメロディを歌う。音楽は日の光を浴びながら沈み込む。
ハープのリズムに乗せて木管が寂しく絡み合う。木管アンサンブルが感動的にクライマックスを呼び寄せると、弦楽が感情的に流れこみ、金管楽器も加わり感動的な爆発を迎える。トランペットのメロディは第一楽章で聴かれたもの断片を伴う。ヴァイオリンが残り、断片的な強奏。これは「不整脈」と呼ばれる第一主題のリズム動機。第一楽章で得られた多義的な《もの》が、ここで高次に純化されて再現される!冒頭楽章の動機・主題が、終楽章で高次に再現される手法はマーラーにおいては頻繁に見られますが、これほど効果的な“再現”は他に見られない。これ以降音楽は徐々に楽器を減らして、この劇的な交響曲の、余情に浸ります。終盤で注目すべきは自作「亡き子を偲ぶ歌」第4曲「子供たちはちょっとでかけただけだと、良く思うのだ」からの引用。それ以前にも引用は聴き取れるのですが、ここに来てはっきりと姿を現します。
曲はこちら。
「子供たちはちょっとでかけただけだと、良く思うのだ」の歌詞は:
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というものです。
それぞれ
25小節 「Sie machen nur einen weiten Gang! 彼らはちょっと長い散歩に出かけただけなのだ」
110小節以下 「 Sie machen nur den Gang zu jenen Höh'n! みんな、あの高い丘へ散歩に出かけているだけなんだ」
164小節以下 「Im Sonnenschein! Der Tag is schön auf jenen Höh'n! 輝くあの丘 今日あの丘は良いお天気なんだから!」
という具合に引用されています。
…まさに終結部は「死」そのもの。最後はersterbend、死に絶えるように終わります。
先に述べた「原光」からの引用(天国にいたいと思う!の部分)も鑑みれば、この音楽の性質が自ずと分かります。すなわち現世からの旅立ち=「死」。死ははいうまでもなく、最も普遍的なものです。第4楽章は極めてリアルな死の描写といえるでしょう。
重要なのは、村井翔氏の指摘するように、天国での描写=救いは仄めかしにすぎないことです。表現されているあくまでリアルな「死」。かつての2番、7番では「ersterbend」の後に、天国での描写がありました。“お約束”の救いの描写があることによって我々聴衆は、ある意味で安心してしまいますが、やはりその救いは「神は死んだ」現代においては上っ面なものでしょう。このことも、第9番の普遍性の源泉なのかも知れない。
神による救いなどないのだろう。…しかし、わたしはそれでもわが子のいるあの丘へ行こうとするのだ…。ここで表現されているものは盲目的な信仰でも、やけっぱちの諦めでもなく、もっと高次の、人間が安楽な死を迎える直前にのみ、感じることが出来るような感情なのではないかと思います。願わくば9番のようにわたしは死にたい。
おまけ。
参考文献:
・Wikipedia - 交響曲第9番
・The Lied and Art Song Texts Page
・村井翔「マーラー」 ISBN:4276221889
・音楽之友社 マーラー ISBN:4276010411
・音楽之友社 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲 ISBN:4276130727
・グスタフ・マーラー―その人と芸術、そして時代 ISBN:4884706846
お勧めのディスク
バーンスタイン@ACO
★★★★★
文句なしの名盤。9番は非常に多くの名盤がありますが、これが暫定ベスト・オブ・ベスト。
もちろん追加予定。しばしお待ちを…。
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