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マーラー:交響曲「大地の歌」
  


 マーラーの第9作目の交響曲。第8番同様、従来の「交響曲」の形式を大きく逸脱しており、全6曲のオーケストラ付き歌曲集と言っても良い作品。「唐詩」を題材にしており、後の9番、10番でも語られる、無常感、死、青春の回顧、別離の悲しみ、といったテーマを先取りしています。
 ヴェーベルンはこの交響曲に関してこのような発言を残しています。

 すでに君に話した様に、これは瀕死の人間の魂の傍らを、生が通り過ぎてゆくような、いやもっと適切に言えば、生きてきた過去が通り過ぎて行くかのようなものなのだ。芸術作品が凝縮され、素材の束縛を脱すると、現実的なものは蒸発して、理念が残る。この歌曲集はそういうものなのだ。

 私はこの曲、特に終楽章を聴くと、精神が底深く沈溺して、なんとも言えない無常感にとらわれてしまいます。遠つ祖の太古から、覆すことあたわぬ無常の前に、人間は常に無力で矮小だった…そんな実感を得ることが出来る稀有な芸術作品です。


歌詞について

 歌詞はハンス・ベートゲの唐詩の訳本、「中国の笛」という書籍から採られています。この「中国の笛」の詩、すなわち「大地の歌」で使われている詩は原詩そのままではなく、自由な変形が加えられたものです。しかし変形を受けながらも、原詩の詩情は失われておらず、むしろマーラーの音楽によって情感は倍加されているようにすら感じます。
 この曲に現われている不思議な「詩情」をどう感じるかは興味深い問題で、私はマーラーが民謡から民族的なものを取り去ったのと同様に、唐詩から中国的なものを剥奪したようにも感じます。使われているのは紛れもなく唐詩なんですが、マーラーの言語が介在しているので、どういう訳か「これは紛れもなく唐詩だ」と断定することが出来ない。それは何故かと言えば、この「大地の歌」の中では、東洋的な詩情が、より普遍的な詩情へ変形・止揚されているからではないかと思います。
 同じ世紀末ウィーンに活躍したクリムトの作品「期待」における唐草模様と近い関係を感じます。ここでの唐草は、明らかに唐草なんですが、その「唐草」たる根源的な要素が絵画の文脈の中で剥奪されているので、もはや唐草とは言えないのです。

 「期待」

 また、マーラーは「復活」などで行ったように、ベートゲの訳詩自体も自由に改変しています。例えば終楽章での「ewig......ewig.....」という句は王維の「送別」から採られており、原詩では「白雲無尽時(白雲尽くる時無し」、ベートゲの訳詩では「Und ewig, ewig sind die weissen Wolken...」とあるのを、マーラーはより簡潔に「ewig......ewig.....」とすることによって、深遠な詩情を醸し出すことに成功しています。
 本文だけに留まらず、詩のタイトル自体も改変しています。第3楽章<青春について>の原題は<陶磁の園亭>であり、第5楽章<春に酔えるもの>は<春に酒酌むもの>、終楽章<告別>は<友を期して待つも>と<友の送別>です。「復活」における「アレルヤ」の削除と共通することですが、マーラーの改変は抽象性・普遍性を拡大する方向で行われています。これはマーラーが固執した、標題の拒絶にも通じます。マーラーは音楽が過度に説明的になりすぎるのを嫌ったのではないか、と私は思います。
 このようにマーラー自身の改変部分にはマーラーの思想が現われており、その考察はマーラー作品の理解を深めます。他の例を挙げれば:
 

Alle Sehnsucht will nun träumen.
Die mäden Menschen gehn heimwärts,
Um im Schlaf vergeßnes Glück
Und Jugend neu zu lernen!
全ての憧れの夢を見ようとし始める
生きる苦しみに疲れし人々 家路を急ぎ
眠りの内に過ぎ去りし幸福と青春
再びよみがえらそうとするように


 作曲者の加筆部分であるこの箇所には、マーラーが1910年に診察を受けたフロイトの「夢の理論」が反映されていると考えられます。他にも「永遠の大地」を強調する箇所からはニーチェやショーペンハウアーの思想も読み取ることが出来ます。
 「大地の歌」にはこれらの思想、娘の死、歌劇場の解任、心臓病、アルマとの軋轢、など様々な個人的体験が内包されている、と言えるかも知れません。しかし、そのような個人的体験に基づきながらも、表出しているのはあくまで人類普遍の「悲嘆」「自然・青春への賛美」「無常感」「孤独」「厭世観」などです。個人的なのに普遍的、と言う点はマーラー音楽の重要な特徴です。


<追記>
ドナルド・キーン著「音楽の出会いとよろこび」に面白い記述がありました。

  マーラーの《大地の歌》は、李白などの詩のドイツ語訳にもとづいた作品である。少しも中国音楽を連想させるようなところはないが、詩の雰囲気が、マーラーの一部となってしまっていること、マーラーがそれらの詩を用いたのは、異国趣味の実践としてではなく、それらがいかなるヨーロッパ詩にもまして、彼のうちなる悲しみを表現していたためであったことは明白である。「生は暗く、死も暗い」は、ドイツ後期ロマン派のペシミズムの叫びのごとく聴こえるが、それこそ、マーラーが中国詩の中に見いだしたものだった

流石はドナルド・キーン、と言ったところ。「中国詩を使っている~」と聞くと、ついプッチーニ「蝶々夫人」やケテルビー「ペルシャの市場にて」などのような、異国趣味に基づいた作品なのかと勘違いしてしまいそうになりますが、「大地の歌」は東洋趣味という枠組みから外して考えられるべき類いの作品でしょう。



第1楽章 「大地の哀愁に寄せる酒の歌」 李白「悲歌行」による

(ピアノ二重奏伴奏版)


 劇的なオープニングの第1楽章。ラ・ソ・ミ・ド(A-G-E-C)という中国風の五音音階の音列が使われており、これは全曲の基礎音列となります。5小節目のヴァイオリンに下降動機として表れていますね。

Schön winkt der Wein im goldnen Pokale,
Doch trinkt noch nicht,
erst sing ich euch ein Lied!
Das Lied vom Kummer
Soll auflachend in die Seele euch klingen.
Wenn der Kummer naht,
Liegen wüst die Gärten der Seele,
Welkt hin und stirbt die Freude,der Gesang.

Dunkel ist das Leben, ist der Tod.
黄金の杯を満たすこのうま酒を
いまにも飲まんとする前に
しばし待たれよ、まずは歌でも一節歌おうぞ。
憂愁を誘うこの歌を
哄笑持って響かせ高鳴らせよう。
悲しみがこの身に迫り来ると、
心の園も悲しみでいっぱい。
歓びの情もその歌う声もしおれ果て消えゆくかな

生も暗ければ死もまた暗い。


 「生も暗ければ死もまた暗い」は下降していく音形があてがわれており、基礎音列の変形と考えられます。

Herr dieses Hauses!
Dein Keller birgt die Fülle des goldenen Weins!
Hier, diese Laute nenn' ich mein!
Die Laute schlagen und die Gläser leeren,
Das sind die Dinge,
die zusammen passen.
Ein voller Becher Weins
zur rechten Zeit
Ist mehr wert,als alle Reiche
dieser Erde!

Dunkel is das Leben, ist der Tod.
この家の主よ!
君が酒蔵に琥珀の酒が満ちて
ここにあるのは私の琴!
この琴をかき鳴らし、
酒を酌み交わすことこそ
今の私たちに最もふさわしいだろう
まさにこの一杯の酒,
ほどよきこの時なみなみと注がれ
世を占めんとする滴の全ての王国にも優り、
悠久なるもの

生は暗く、そのまた死も暗いのだから。


 「Dunkel is das Leben, ist der Tod.」は現われるたびに変化しており、最初はト長調、2回目に変イ短調、3回目にはイ短調と半音ずつ上がっていきます。
 落ち着いた、優美なオーケストラによる間奏が挟まります。

Das Firmament blaut ewig und die Erde
Wird lange fest stehen und aufblühn im Lenz.
Du aber, Mensch,
wie lang lebst denn du?
Nicht hundert Jahre darfst du dich ergötzen
An all dem morschen Tande dieser Erde!
天空は永久に蒼(あお)く、しかも、大地は
永遠に揺るがせはせずにあり、春ともなれば花咲き乱れ
だが人間たる君よ。
君はどれだけ生き長らえていくものか。
百歳とは許されない身の上で気まぐれ慰(なぐさ)むとて
全てこの大地の儚(はかな)き戯れを楽しむだけ!

 問いかけるような調子で厭世観溢れる詩が朗唱される。煌めくグロッケンシュピールの金属音に点火され、最高潮の第4節へ。
 ベートゲの原詩では「夕べの甘美な香り」となっているのを、マーラーはより広く深遠に「この世の甘美な香り」と改変しました。叫びのような「Lebens!」で最高音へ、そして一気にグリッサンドで駆け下りる!

Seht dort hinab!
Im Mondschein auf den Gräbern
Hockt eine wildgespenstische Gestalt!
Ein Aff ist's! Hört ihr,wie sein Heulen
Hinausgellt in den süßen Duft
des Lebens!
そこかしこに佇み見下ろしたまえ!
月光を浴びた墓の上に
座してうずくまる者は荒々しくも不気味な物影、
それは孤独な猿一匹!聴け、その鋭い叫びを
この世の甘美な香りに
甲高きむせび泣き絶叫していくのを!


 三度目の「生は暗く、死もまた暗い!」を唱えると、無慈悲に曲は閉じられる。

Jetzt nehmt den Wein!
Jetzt ist es Zeit, Genossen!
Leert eure goldnen Becher zu Grund!

Dunkel ist das Leben, ist der Tod!
さぁ友よ、いまこそ盃をとれ。
いまこそ飲み乾すのだ。
この黄金なる盃の中の酒を飲み尽くす時だ

生は暗く、死もまた暗い!


 「生も暗ければ死もまた暗い」という句が印象的な第1楽章。この句は実は原詩にあるわけではなく、ベートゲの創作だと考えられています。原詩の持つ要素を失わず、強烈な句を挿入することに成功したベートゲのセンスに拍手です。

第2楽章「秋に寂しき者」 原詩は未特定

 無常感漂う楽章。基礎音列に基づく、オーボエの漂うような旋律が異様です。第10番に見られる調性の放棄への下地はここら辺で培われたのかもしれません。

Herbstnebel wallen bläulich überm See;
Vom Reif bezogen stehen alle Gräser;
Man meint', ein Künstler habe Staub vom Jade
Über die feinen Blüten ausgestreut.
Der süße Duft der Blumen is verflogen;
Ein kalter Wind beugt ihre Stengel nieder.
Bald werden die verwelkten,
goldnen Blätter Der Lotosblüten
auf dem Wasser ziehn.
秋の霧が青らみ湖面を渡り、
霜がすべての草草を白く包み
あたかも匠(たくみ)の手が玉光のこまやかな粉を
美しく咲き誇る花の上にまき散らしたかのようだ。
花のかぐわしき香りは、
すでに飛び流れ去り、
その茎は冷たい秋の北風がうち吹かれ横たえた
枯れしぼみ金色に染まった睡蓮(すいれん)の花も
ことごとくやがては池の面に浮かび出すだろう


 第一楽章の冒頭の主題が裏でひっそりと表れていますね。他にも基礎音列の転回形などを巧みに紛れ込ませています。練達の作曲技法。

Mein Herz ist müde.
Meine kleine Lampe Erlosch mit Knistern;
es gemahnt mich an den Schlaf.
Ich komm zu dir, traute Ruhestätte! Ja,
gib mir Ruh,
ich hab Erquickung not!
私の心は疲れ果て
私のささやかな灯も幽かな音とともに消え
私は一人想い寝の眠りに誘われる心安らぐ憩いの場所
私はそなたのもとへ行こう
そう今こそ私に憩いを与えておくれ
私はささやかに回復を欲するだけだ


 一瞬だけ現われるほの明るい濛々とした空気は、亡き子をしのぶ歌の「子供たちはちょっと遠くに出かけただけだと思うのだ」からの引用。これは第9番でも引用されており、娘との死別という個人的事件が関係していると思われます。

Ich weine viel in meinen Einsamkeiten.
Der Herbst in meinem Herzen währt zu lange.
Sonne der Liebe,
willst du nie mehr scheinen,
Um meine bittern Tränen mild aufzutrocknen?
私は一人孤独のうちに涙ぐみ、
心の奥にひそむこの秋は
果てしなく広がりわたる太陽よ!
そなたは慈悲深く、再び輝きあらわれて
私の苦きこの涙をやさしく拭い去ってはくださらぬか?


 「Sonne der Liebe~」から音楽は情熱を増し、浮き上がるが、すぐに沈み込み希薄な空気の中へ霧散してしまう。

第3楽章「青春について」 李白「宴陶家亭子」による

 (室内楽編曲・笛は「笛子(てきし, dizi)」と呼ばれる民族楽器)

 唐詩のオリエンタルな雰囲気を存分に感じさせる楽章。約3分とマーラーの作品にしては例外的に短い楽章です。「白磁なる陶土で出来た東屋」は流石にベートゲの誤訳で、本来は「陶さんという人の東屋」が正しいそうです。ここら辺の勘違いは興味深い。当時の西洋人の知識では疑問を持つことすら及ばなかったのでしょう。

Mitten in dem kleinen Teiche Steht
ein Pavillon aus grünem
Und aus weißem Porzellan.

Wie der Rücken eines Tigers Wölbt
die Brücke sich aus Jade
Zu dem Pavillon hinüber.

In dem Häuschen sitzen Freunde,
Schön gekleidet, trinken, plaudern,
Manche schreiben Verse nieder.

Ihre seidnen Ärmel gleiten Rückwärts,
ihre seidnen Mützen Hocken lustig tief
im Nacken.
ささやかな池のその真ん中に
立ったのは緑の陶土と
白磁なる陶土でできた東屋よ

虎の背に凭(もた)れたかの形して
硬玉(ダイヤの玉)でつくった橋
丸く架かって東屋にいたる

小さな家に籠(こ)もる朋友(ほうゆう)
着飾り、杯あげて、談笑を交わして
詩を書きつける者もまた多し

その絹地の袖は背中にすべりきくずれて
その絹地の冠帽子は襟首に
可笑しくぶら下がる


 まどろむような反射の描写。グリッサンドが非現実的・幻想的。

Auf des kleinen Teiches stiller
Wasserfläche zeigt sich alles Wunderlich
im Spiegelbilde.
ささやかな池の面の
ひそかやかな水に辺りのもの全てが
趣深く映っている


 すぐに快活さを取り戻し、爽やかに曲を閉じます。

Alles auf dem Kopfe stehend
In dem Pavillon aus grünem
Und aus weißem Porzellan;

Wie ein Halbmond steht die Brücke,
Umgekehrt der Bogen. Freunde,
Schön gekleidet, trinken, plaudern.
逆さまに映り立たないものはない
この緑の陶土と
白磁なる陶土とともになる東屋の中

半月のごとき太鼓橋はかかり
その弧となる姿も逆さまに
美しく着飾り、盃をあげて 談笑交わす


第4楽章「美について」 李白「採蓮曲」による

 前楽章を引き継ぐように、希薄な高音域のオーケストレーションで始められる。少しアイロニカルな響きがありますね。
 ハッと目に浮かぶような優れた情景描写はまさに唐詩のもの。なんですが、これも実は誤訳です。本来は蓮を摘むのは立派な労働で、こんなうら若き乙女たちが妖精のように戯れる、牧歌的な風景を読んだ詩ではないそうです。まぁ、結果良ければ全て良しでしょう。

Junge Mädchen pflücken Blumen,
Pflücken Lotosblumen an dem Uferrande.
Zwischen Büschen und Blättern sitzen sie,
Sammeln Blüten in den Schoß
und rufen Sich einander Neckereien zu.

Goldne Sonne webt um die Gestalten,
Spiegelt sie im blanken
Wasser wider.
Sonne spiegelt ihre schlanken Glieder,
Ihre süßen Augen wider,
Und der Zephyr hebt mit Schmeichelkosen
das Gewebe
Ihrer Ärmel auf,führt den Zauber
Ihrer Wohlgerüche durch die Luft.
うら若き乙女たち 自然にわく水のその池に
花摘む その蓮の花を
岸辺の茂みの中、葉と葉の中に座して
茗荷の花を手折り、膝に集め
嬉嬉たる声をあげ、一緒に交わし合った。

金色の陽は差し照りて、
その乙女たちを包んで
きらめく水面に映し出している
陽は乙女たちのたおやかな肢体と
愛らしい瞳とを逆さまにして映し出している
そしてさらに微風は
乙女たちの袂(たもと)を揺らし
魅惑に満ちた乙女の香りを
日射しの中に振りまいた。


 行進曲調の中間部。しばらく出番のなかった金管楽器・打楽器がここで鮮烈に登場します。ティンパニはここが唯一の登場。異国情緒もへったくれもない、超民族的なマーラー節がようやくここで現れます。

O sieh,
was tummeln sich für schöne Knaben Dort
an dem Uferrand auf mut'gen Rossen?
Weithin glänzend wie die Sonnenstrahlen,
Schon zwischen dem Geäst
der grünen Weiden Trabt
das jungfrische Volk einher!

Das Roß des einen wiehert fröhlich auf
Und scheut und saust dahin,
Über Blumen, Gräser, wanken hin die Hufe,
Sie zerstampfen jäh im Sturm
die hingesunknen Blüten.
Hei! Wie flattern im Taumel seine Mähnen,
Dampfen heiß die Nüstern!
見よあれを
凛々しい少年たちが猛り勇ましい駿馬にまたがり、
駆けめぐる、いかなる者たちよ?
陽の差す光にも似て、きらめき遠ざかり、
はやくも緑なす柳葉の
茂れる枝の木の間より
若人が群がり、現れ走り行く

ひとりの少年の馬は 歓びに嘶(いなな)きて
怖じけながら猛り走り行き
草花の咲く野原の上を越えて
土音たてて馬蹄はよろめき去る
たちまちに嵐のように、落花を踏みしだく
そのたてがみは 熱に浮かれて靡(なび)きひるがえり
その鼻孔は熱い息吹き出しぬ


 駆け込むように句を歌い終えると、再び緩やかな牧歌的風景。

Goldne Sonne webt um die Gestalten,
Spiegelt sie im blanken Wasser wider.
Und die schönste von den Jungfraun
sendet Lange Blicke ihm der Sehnsucht nach.
Ihre stolze Haltung is nur Verstellung.
In dem Funkeln ihrer großen Augen,
In dem Dunkel ihres heißen Blicks Schwingt
klagend noch die Erregung ihres Herzens nach.
金色に輝く太陽がそこにあるものを光で包み
静かで清らかな水面にあらゆる影を映し出し
その中でも美しき乙女が顔をあげ、少年へ
送るのは憧憬の眼差し、ながながと追いかける
乙女の誇らしき物腰態度、上辺だけの見せかけに過ぎぬもの
つぶらな瞳の閃きながら火花の中に
熱いその眼差しによぎる暗き影の中にも
心のどよめき、なおも長引き哀しく憧れ秘めている


 歌詞の内容は美を礼賛した端正なものですが、曲調に少し人を食ったような感じを受けるのは私だけではないでしょう。マーラーの交響曲は全体の中心にスケルツォ楽章を置くことが多いです。「大地の歌」はこの第4楽章を中心に、第3楽章と第5楽章、第2楽章と第6楽章(前半)、第1楽章と第6楽章(後半)がシンメトリックに配置されていると考えられます。このスケルツォめいた曲調と、全体の中心に置かれているという事実から、この第4楽章は、マーラーの交響曲に欠かせない、スケルツォ楽章であるといって良いのかも知れません。


第5楽章「春に酔える者」 李白「春日酔起言志」による

 約4分と、こちらも比較的短い楽章。なるほど第3楽章と対になっていますね。それだけでなく、酒と言うテーマは第1楽章と、季節というテーマでは第2楽章ともつながりを持っています。来たる終楽章への締めくくりとして相応しい句が選ばれています。

Wenn nur ein Traum das Leben ist,
Warum denn Müh und Plag?
Ich trinke, bis ich nicht mehr kann,
Den ganzen, lieben Tag!

Und wenn ich nicht mehr trinken kann,
Weil Kehl und Seele voll, So tauml'
ich bis zu meiner Tür
Und schlafe wundervoll!
人生がただ一場の夢ならば
努力や苦労は私にとって何の価値があろうか?
それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで
終日酒に溺れようぞ。

喉も魂までも溺れ酔いしれて
ついに酔いつぶれて飲めなくなったら
よろめきながら家の戸口にたどり着き
そのままそこに眠り込んでしまうのだ


 中間は「一時止揚」の酔夢の描写。鶯を模したピッコロが美しい。第七番第四楽章のセレナード(夜曲)も登場します。

Was hör ich beim Erwachen?
Horch! Ein Vogel singt im Baum.
Ich frag ihn, ob schon Frühling sei,
Mir ist als wie im Traum.

Der Vogel zwitschert: Ja!
Der Lenz Ist da, sei kommen über Nacht!
Aus tiefstem Schauen lausch ich auf,
Der Vogel singt und lacht!
目覚めて何を聞くのか さあ聞くがよい
前庭の樹の花 その花の中で鳴くは鶯一羽
私は鶯に尋ね聞く。<もう春になったのか>と
私はいまだに夢心地まどろむ

鶯囀(さえず)り、《そうです。春はすでにやって来た。
闇夜を渡り、春はここにやって来た》と
そうして私は聞き惚れ感じ入り、見つめれば
鶯はここぞとばかりに歌い、笑うのだ


 半ば自暴自棄な結句。現世の喜びの否定は、第1番から連綿と続くマーラー作品の根源的要素です。

Ich fülle mir den Becher neu
Und leer ihn bis zum Grund Und singe,
bis der Mond erglänzt Am schwarzen Firmament!

Und wenn ich nicht mehr singen kann,
So schlaf ich wieder ein,
Was geht mich denn der Frühling an!?
Laßt mich betrunken sein!
私は新たに手ずから酒杯を満たし
盃傾け、飲み尽くす底までも、そして歌うのだ
明月が黒き帳の下りた夜空に昇り、輝き渡るまで

もし私がもはや歌えなくなったなら
その時、私はもう一度眠り込む
いったい春は私に何の役に立つのか
だから、このまま酔わせてくれ!



第6楽章「告別」 王維の詩「送別」と孟浩然の詩「宿業師山房期丁大不至」による

(バレエ付き)

 30分を超えるアダージョ楽章。事実上マーラーがもっとも入念に作曲し、彼の思想がもっとも反映されている楽章でしょう。最後に感情の吐露であるアダージョを持ってくる形式は第9番、第10番にも受け継がれます。

 重苦しい導入部。これまでの楽章がどれも軽い響きのするものだったのでこのコントラストは効果的です。「O sieh!」で一瞬光が差すが、すぐに荒涼とした空気へ戻される。

Die Sonne scheidet hinter dem Gebirge.
In alle Täler steigt der Abend nieder
Mit seinen Schatten,die voll Kühlung sind.

O sieh! Wie eine Silberbarke schwebt
Der Mond am blauen Himmelssee herauf.
Ich spüre eines feinen Windes
Wehn Hinter den dunklen Fichten!
夕陽は西の彼方の向こうに沈み
日没過ぎて、しんしんと冷気満ち、
暗闇迫り、渓谷すっぽり包み込む

おお、あれを見よ。銀の小舟のように
月はゆらゆら蒼天の湖にのぼりゆき
私は松ヶ枝の暗き木陰にたたずんで
涼しげな風を身に受ける


 「im Dämmerschein.」の後、旋律は高揚し、求心的な動きを見せるが、低音の一撃で沈み込んでしまう。以下の間奏でも、この挫折は繰り返されます。「zu lernen!(蘇らせようとするように)」の直後のホルンの旋律は第10番の終楽章の5連符動機を思わせます。

Der Bach singt voller Wohllaut
durch das Dunkel. Die Blumen blassen
im Dämmerschein.

Die Erde atmet voll von Ruh und Schlaf,
Alle Sehnsucht will nun träumen.

Die mäden Menschen gehn heimwärts,
Um im Schlaf vergeßnes Glück
Und Jugend neu zu lernen!
美しき小川のせせらぎ 心地よく
この夕闇を歌い渡るぞ
花は黄昏(たそがれ)淡き光に色失う

憩いと眠りに満ち足りて 大地は息づく
全ての憧れの夢を見ようとし始める

生きる苦しみに疲れし人々 家路を急ぎ
眠りの内に過ぎ去りし幸福と青春
再びよみがえらそうとするように


 鳥の不気味な歌声に、刺すようなヴァイオリンの強奏が介入する。第7番でモノにした技法を着実に発揮しています。呪詛のように「Die Welt schläft ein!」と唱えると、音楽はさらに一段階深く、八尋の海へ沈み込む。

Die Vögel hocken still in ihren Zweigen.
Die Welt schläft ein!
鳥は静かにすみかの小枝に休みいて
世界は眠りに就くときぞ






 佇み友を待つ描写。完膚なきまで暗い。マーラーの作曲とは思えない異例の暗さ。

Es wehet kühl im Schatten meiner Fichten.
Ich stehe hier und harre meines Freundes;
Ich harre sein zum letzten Lebewohl.
私のもとの松ヶ枝の木陰に夜陰は冷え冷えと
私はここにたたずんで君が来るのを待つばかり
最後の別れを告げるため、私は友を待ちわびる


 ハープ、フルートが主導し、長調へ転調。情熱を帯び、理想と現実を歌う。諦めと希望が交錯する、全楽章の中でも屈指の美しさを誇る箇所。

Ich sehne mich, o Freund,an deiner Seite
Die Schönheit dieses Abends zu genießen.
Wo bleibst du? Du läßt mich lang allein!

Ich wandle auf und nieder
mit meiner Laute Auf Wegen,
die vom weichen Grase schwellen.
O Schönheit! O ewigen Liebens
- Lebenstrunkne welt!
ああ、友よ。君が来たれば傍らで
この夕景の美しさともに味わいたいのだが
君はいづこか。私一人、ここにたたずみ待ちわびる

私は琴を抱え、行きつ戻りつさまよいて
たおやかな草にふくよかな盛り土、
その道の上にあり
おお、この美しさよ、永久の愛に−
その命にー酔いしれた世界よ





 間奏では再び音楽は冒頭の暗澹たる世界へ。執拗なイングリッシュ・ホルンの動機は辛い現実を容赦なく伝えるよう。ホルンが鬱屈した叫びを上げ、音楽が途切れると、葬送行進曲へ。マーラー作品において重大な意味を持つ葬送行進曲は「大地の歌」においても現われます。揶揄するようなトリル。低音と共に死のゴングが執拗に鳴らされる。
 アルトは王維の詩「送別」を原詩とした箇所へ移ります。停滞した時間の中をアルトが孤独に歌う。間奏では皮肉めいた合いの手が入れられます。友の言葉はふと明るさを帯びるが、諦めの中へ消えてしまう。

Er stieg vom Pferd und reichte
ihm den Trunk Des Abschieds dar.
Er fragte ihn, wohin Er führe
und auch warum es müßte sein.

Er sprach, seine Stimme war umflort:
Du, mein Freund, Mir war auf dieser Welt
das Glück nicht hold! Wohin ich geh?
Ich geh, ich wandre in die Berge.
友は馬より降り立ちて、
別れの酒杯を差し出した
友は尋ね聞く。<どこに行くのか>と、
そしてまた<なぜにいくのか>と

友は答えたが、その声愁いに遮られ、包まれて
<君よ、私の友よ、この世では私は薄幸なりし
 一人今からいずこに行こうか
 さまよい入るのは山中のみさ>






 友の別れを受けて「私」の思いが歌われる。

Ich suche Ruhe für mein einsam Herz.
Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte.

Ich werde niemals in die Ferne schweifen.
Still ist mein Herz und harret seiner Stunde!
私の孤独な心 癒すべく憩いを自ら求めゆき
私が歩み行く彼方には、私が生まれし故郷あり

私は二度と漂白し、さまようことはあるまいよ
私の心は安らぎて、その時を待ち受ける


 最後の節は涅槃的な空気の中、高らかに歌われる。遥か、幻想的な時流の中で歌われる「Ewig... ewig...」は7回繰り返され、最後はお馴染みの「Gänzlich ersterbend 完全に死に絶えるように」で終わります。最後の和音は増六度和音と呼ばれるもので、ド・ミ・ソにラを加えたもの。そして驚くべきことに、この増六度和音は第1楽章から現われている基礎音列「ド・ミ・ソ・ラ」を和音にしたものに他なりません。「大地の歌」が“交響曲”の名を冠し、決して歌曲集ではない理由は、このような形式的な統合にあります。

“Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz
und grünt Aufs neu!
Allüberall und ewig Blauen licht
die Fernen! Ewig... ewig...”
愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く
緑は木々を覆い尽くし 永遠にはるか彼方まで
青々と輝き渡らん
永遠に 永遠に……


 増六度和音は楽曲を閉じず、開かれたままにする効果を与えます。それゆえ最後の句は、さながら「永遠に、永遠に」響き続けるようです。そして時間を超越し、響き続けたこの「Ewig...ewig....」は、次の作品、交響曲第9番の第1楽章第一主題へ繋がっていきます。マーラーにおいては、個々の作品の垣根を越え、形式的統合が全作品に及びます。作品宇宙ともいうべき、巨大な連関が存在するのです。この連関を読み解くことも、マーラー作品鑑賞の楽しさの一つです。
 



参考文献:
 ・Wikipedia - 交響曲「大地の歌」
 ・村井翔「マーラー」 ISBN:4276221889
 ・音楽之友社 マーラー ISBN:4276010411
 ・音楽之友社 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲 ISBN:4276130727




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