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美術展メモ

鑑賞した美術展の備忘録。



ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園@原美術館






 アウトサイダー・アートの代表格、ヘンリー・ダーガーの展覧会に行ってきました。(作品はこちらのサイトで鑑賞できます)
 原美術館はこれが初訪問。品川駅高輪口から徒歩で15分ほど。方向音痴ゆえに道に迷わないか心配でしたが、どう見ても美大生の集団です、な方々が前にいたお陰で迷わずたどり着くことが出来ました。本当にありがとうございました。
 土曜日、かつカルト的な人気を誇る画家というだけあって、想像以上に盛況。入り口に入ってすぐの展示はじっくり観ることが出来ず。また、展示数の割りにボリュームあり。畳一枚以上に及ぶ大判の大作が多いためでしょう。
 ヘンリー・ダーガーが住んでいた部屋の家主・世話役であったネイサン・ラーナーの作品の展示もあり。彼自身も家具などのデザインを手がける一芸術家だっただけあって、なかなか面白い作品が展示されていました。
 Webの画像ではサイズ的に分からない描き込みなんかも発見できて感動。雲の中に顔が書かれていたり、小さな人間が遠くの方で戦っていたり、なかなかお茶目。展覧会のポスターにもなっていた、ブレンギン(Blengin)と呼ばれる少女たちの守護聖獣が実に魅力的。


 胴体に無数のうろこの描きこみあり。偏執病的。


 膨大で精緻な作品を観て、一番の感想は「何のためにこれらの作品を描いたんだ?」。彼は存命中に作品を公表することはしなかったし、無論それを望んでもいなかったわけです。ただひたすら自分の欲求に任せるままに、小説・絵画の膨大な作品宇宙を人知れず築いたのでしょうか。なるほど確かに作品はとても“私的”なものに思えます。部分的にひどく適当で、部分的にひどく精密で。それは単純な欲求の結果であって、描きたくないから描かない、描きたいから描きこんだのでしょう。人に見せるためではないので自分の欲求にまかせれば良いのです。
 これは単純ながらも非常に、創作家としてはうらやましいこと。つまり、私自身、作曲やサイト作りなどなどの創作活動行いますが、人目に触れることを考えると、どうしても書きたい部分・表現したい部分以外を適当にして置けないのです。この文章で例えれば、私が真に書きたいのはこの数行であって、上の方の展覧会云々、ヘンリー・ダーガー云々などは実は適当に・曖昧に済ませたいのです。しかしこの文章が人目に触れることを考えると、無限に校正したくなるし、場合によっては公開を中止することも決断しなければならないのです。これはあらゆる創作活動におけるジレンマでしょう。創作においては、人目を考えると、真に心が望む創作はどこか歪められるのです
 ヘンリー・ダーガーは真の意味で自分のために作品を描いたのでしょう。そのような意図をもって作られた彼の作品は、通俗的な意味での完成度は低いです。が、んな価値基準は彼の創作において、はなっから眼中にないのです。完成させる必要も無ければ、そもそも「描きたい」という欲求の単純な結果だから、定義上完成するはずが無い。美術史を隈なく見ても、こういった作品ってのは稀有。というか美術史が実質「芸術家」の歴史である以上、ほとんどあり得ないです。その意味で「人目」を気にしない“天衣無縫性”はアウトサイダー・アートの特有の魅力の一つでもあります。
 しかし…だとすると、それらの芸術を我々が観ることは、罪悪なのかも知れません。実際にヘンリー・ダーガーの作品を観ても、彼がこれを他人に見られたくなかったであろうことを、心の隅で感じてしまいます。自分の死後にハードディスクの中身を見られるようなものですからねぇ。彼の残した偉大な芸術を楽しみつつも、なんかしらの罪悪感を背負わせる…これもアウトサイダー・アートの魅力なのかも。


2007年7月7日(土)




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