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マーラー:交響曲第3番
第3番は実に100分超に及ぶその長大さ(ギネスに載っているほど)に加えて、女声合唱、児童合唱、アルト独唱、大規模な管楽器を要求するために、マーラー作品の中でも演奏機会に恵まれない作品です。長大さゆえにファンからも避けられがちですが、音楽の内容は理解のしやすいもの。マーラーの“正統派な”交響曲の頂点を築くものです。
この交響曲は“自然”を描いたものとしてしばしば紹介されます。しかしここで描かれている“自然”は“普遍”とも言える性質のもの。マーラー自身このように語っています;
私がいつも奇異に思うことは、ほとんどの人が「自然」と言うとき、いつだってただ花とか小鳥とか森の息吹だとかしか頭に描いていないことです。ディオニソスや偉大な牧神のことなど誰も知りません。つまり、ここにはすでにある種のプログラム―私がどのように音楽を作るかのひとつのサンプルが含まれています。それはいつだってどんな場合にも自然の響きなのです!
作曲中にアンナ・フォン・ミルデンブルクに宛てた手紙の中では
私の交響曲は、世界がいまだかつて聴いたことがないようなものになるでしょう!そこでは全自然が自らの声を得て、人がかろうじて夢の中でだけ予感しうるような深い秘密を語るのです!実は、いくつかの箇所ではわれながら不気味な感じに襲われることがあります。全く自分が作ったものとは思われないからです。私の思い通りに仕上げたものを、すべてただ受け取っただけ、そんな感じがするのです。
と語っています。
勝手に体が書いた、という話はシュルレアリスムのオートマティスム(自動筆記)を彷彿とさせます。シュルレアリストが描いたものは、理性=現実を超えた“謎”でしたが、マーラーはこの第3番で(3番に限りませんが)人間存在の原風景とも言うべき、理性を超えた普遍的な自然を描き出していると言えるでしょう。
曲の概要
第2番でもそうでしたが、この第3番でもニーチェの思想が散見されます。表題として考案されていた「悦ばしき知識」「夏の真昼の夢」、各楽章で表現されるループ構造の「永劫回帰」、第4楽章の「ツァラトゥストラはかく語りき」、などがそうです。より深い理解のためにはニーチェの思想を理解することが不可欠なのですが、何を隠そう私自身がニーチェの思想にちっとも詳しくないので触れないように進めていきたいと思います。
マーラーにしては珍しく、各楽章に「理解を助ける」標題を付けています。数度の変更の末(変更の内容は資料参照)、最終的には以下のようなプログラムとして初演されました。
『夏の朝の夢』
第一部
第1楽章
序奏 牧神が目覚める
夏が行進してやってくる(バッカスの行進)
第二部
第2楽章 草原の花たちが私に語ること
第3楽章 森の獣たちが私に語ること
第4楽章 人間が私に語ること
第5楽章 天使が私に語ること
第6楽章 愛が私に語ること モットー:父様は僕の傷口を見てくださる
しかしながら、マーラー本人が言うように、標題はあくまで理解の補助に過ぎません。あまり囚われていては広大無辺なマーラー世界を、自ずから狭めることになってしまいます。
第1楽章
ホルン8本の斉奏による序奏。マーラーはここを「牧神《パーン》が目覚める」としています。この主題はブラームス「大学祝典序曲」で用いられた、ブルシェンシャフトの名で知られるドイツの学生結社の学生歌「我らは立派な校舎を建てた」の引用だと考えられています。それだけでなく、同じくブラームスの交響曲第1番終楽章の主題の進行にも類似しています。ブラームスの第1番を「ベートーヴェンの第10交響曲」と言わしめているあの旋律です。あくまで仄めかしに過ぎないので序奏から何を読み取るかは研究者によって様々なのですが、マーラーの親友であったハンス・ロットが、ブラームスからの批判を原因に自殺してしまったことが関係しているという説が面白い。反ブラームス、反アカデミズムの旋律なんですね。
(吹いているのはパンの笛)
牧神パーンは、ローマ神話における半獣神ファウヌスと同一視されています。Panicの語源ともなっているように、荒々しい姿で描かれます。ちなみに性豪でも知られる神ですから、パーンが目覚める、なんていうと少しエロチックな響きがありますね。これは深読みしすぎでしょうけど。
序奏が立ち消えると、第一主題部(主題の発展の複雑さゆえに、ここでは村井氏にならって“主題部”として考えます)。第2主題部を「夏が行進してやってくる(バッカスの行進)」と捉えると、この第1主題部はさしずめ「冬の音楽」(ニーチェの言説になぞらえて、「昼」と「夜」としても良いかもしれません)。第4番、第5番でも聴こえる「タタタターン」の音形――後に「葬送行進曲」として姿を明らかにする音形――が登場します。ベースドラムがリズムを刻み明るくなると、第二主題部「バッカスの行進」。序奏の「牧神が目覚める」主題の変形が垣間見えます。第1楽章はこの「冬」と「夏」の2つの対照的な主題部が3度にわたってループされる構造を取っています。しかしバッカスの行進はすぐに遠ざかり、印象的な“冬の”トロンボーンソロへと移ります。
ソロが終わると明確に“夏の”第二主題部が柔らかに提示されます。快活に行進曲が進められ、音楽がハープのグリッサンドを起点に「突発」すると、ホルンが高らかに吼え、劇的に冬の第一主題部へ。トロンボーン、イングリッシュ・ホルンが荒涼とした冬を暗示する。不安な空気の中、夏がやってくるが、冬のヴェールの裏で儚げに聴こえるのみ。行進曲が賑やかにやってくると二度目の夏。バッカスの狂乱の行進、これぞPanic。「巨人」で現われたファンファーレも現われます。ここの展開はコラージュ的で耳に楽しいもの。シュトラウスはここでの狂乱を「メーデーの行進」と表現したそうです。
ゲーテ「ファウスト」からバッカスに関する文章を引用しましょう。第二部第三幕の最後の節(10028行~)です。
すべての収穫は大桶へと運ばれて 絞り手たちがその上で踊り始める。
純に生まれて豊かな果樹があふれ出る 聖なる葡萄の房々は
非道に踏まれあわ立ち 飛び散り交じり合い 無残に細かくつぶされます。
そしていまや耳をつんざき響くのは シンバル 銅鑼の金属の音
古き秘儀からディオニュソスがその姿を現したのです。
森に棲む山羊脚の精霊たち妖精たちが 騒ぎ踊りつ後に従い
その間にもシレノスの乗る耳長驢馬が野放図に叫び続ける。
敬意遠慮もあらばこそ!割れたひづめが醇風美俗をみな踏みにじり
五官はよろめき渦巻いて 身の毛のよだつ騒音が耳を聾する。
酔っ払いはなおも酒杯を手探りし 頭も太鼓腹もはち切れる。
一人二人はやきもきしてるが かえってそれで騒ぎは倍加。
今年の酒を詰めるためには 古い皮袋が急ぎ飲み干されなければならないのです。
怒涛の喧騒の中、スネアドラムだけが残り行進曲のリズムを叩き終えると、序奏主題が戻ってきます。最後の冬⇔夏の循環です。ハープが鮮やかな「突発」部を華やかに再現し、なだれ込むように音楽は狂喜乱舞して終わる。
最後の10分間の演奏動画。その編成の巨大さが良く分かるかと思います。
第2楽章
「草原の花たちが私に語ること」。嵐の後のメヌエット。ABABAの形式を取ります。素晴らしいオーケストレーションとユーモアを堪能しましょう。
第3楽章
「森の獣たちが私に語ること」。スケルツォ楽章です。この曲は歌曲集「若き日の歌」第11曲の<夏に小鳥はかわり>に基づいています(mp3がこちらで聴けます、スピーカーマークをクリック)。その歌詞は「カッコウは柳の洞穴に落ちて死んだ。ウグイスは緑の枝で鳴きながら、いまやわれわれを楽しませるだろう」というもの。小鳥の交代を通じて“永劫回帰”をここでも提示しています。
クラリネットの合図でピッコロが哀愁を帯びた小鳥の鳴き声のような主題を出します。「タタタ」というアクセントが印象的な動機を受け、主題が展開されます。低弦ののっそりと起き上がるような旋律は第2番「復活」を髣髴とさせますね。
白眉はポストホルンによるトリオ。ポストホルンは郵便ラッパとして使われる楽器でもあり、この箇所はニコラウス・レーナウの詩「駅馬車の御者」をイメージしていると考えられています。郷愁に満ちた幻想的な詩。
なおこの旋律はドイツ民謡6曲、スペインの舞曲1曲をにおわせるものになっています。グリンカの「ホタ・アラゴネーザ」、リストの「スペイン狂詩曲」の中の旋律とも類似しています。この旋律はマーラー音楽の重要な要素である、「民族性を払拭した民謡」の好例。マーラー作品の中に現われる民謡は、その元の姿をあくまで“におわせる程度”に変換されます。民謡は「民謡そのもの」から「民謡風の旋律」に変換されることによって、憧れ・郷愁・皮肉といった性質を持つようになります。こういった芸当は、愛国精神たっぷりな国民楽派的作曲家には決して出来ないことであり、マーラーが「“オーストリアにおけるボヘミア人”、“ドイツにおけるオーストリア人”、そして“世界におけるユダヤ人”だから」こそなしえた高度な技術であると言えます。
「帰営合図」のトランペットが唐突に鳴り響くと、スケルツォが自由に再現されます。ポストホルンのソロが名残惜しげに歌われ、クライマックスへ突き上がるための「突発」を迎えます。結尾のリズムは愛らしく印象的。
第4楽章
「ツァラトゥストラはかく語りき」の中の「酔歌」をテキストにした歌曲楽章。
歌詞はこのようなもの。
O Mensch! Gib acht! |
おお、人間よ! 注意して聴け! |
アルトの旋律は第1楽章の序奏主題の後半、第一主題部の旋律と関係を持っています。第1楽章の内容を言葉で語っていると考えられます。それをどう読み取るかはなかなか難しいのですが…。
第5楽章
「少年の魔法の角笛」から「3人の天使が歌う」が引用されています。「ビム・バム!」と鐘の響きを模倣する天使たちの歌声が、前楽章の瞑想的な雰囲気と非常に対照的。
中間部のアルトソロの旋律は第4番第4楽章でも用いられるもの。皮肉たっぷりに歌われる第4番とは違って、こちらでは肯定的に歌われます(?)。しかし、ニーチェのあとにキリスト教とは、何かアイロニーめいたものを感じさせます…。
(Bimm bamm!) Es sungen drei Engel einen süßen Gesang, Und als der Herr Jesus zu Tishe saß, „Ach, sollt' ich nicht weinen, du gütiger Gott; „Hast du denn übertreten die zehn Gebot, Die himmlishe Freud' ist eine selige Stadt;
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(ビム・バム!) 3人の天使が美しい歌をうたい、 主イエスは食卓にお着きになり、 「心広き神よ!私は泣いてはいけないのでしょうか? 「お前が十戒を破ったというなら、 天国の喜びは幸福の街である。
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第6楽章
「愛が私に語ること」。形而上学的な神の愛が表現されています。複変奏曲でABCABCACAという形式を取っています。
厳粛に奏される第1主題(A)は、またまた第1楽章序奏の主題と関係しています。マーラー音楽の特徴である「旋律や動機の高次な発展」が良く分かると思います。冒頭の激情は、ついに愛へと昇華されたのです。悲しげに第1主題が変奏され、テンポがやや上がり、木管が嘆くような第2主題(B)を出す。旋律は溶け合い、姿は判然としない。素晴らしい対位法。金管が叫ぶ、悲劇的な第1楽章の「突発」に基づく旋律が第3主題(C)。
第1主題が物憂げに歌われる。変奏の過程でわずかに光が差すも、ヴァイオリン独奏が導く第2主題によって感情は着実に沁みいで、広がった亀裂から悲劇の第3主題が流れ出す。第3主題には第4楽章の「Tief
ist ihr Weh! 世界の苦悩は深い!」の旋律が重なります。
3度目の第1主題。性格はより決然としたものに変化しています。そのまま流れ込むように第3主題が最後の爆発をすると、音楽は強い不協和音のもとに一度崩壊する。引き裂かれた大地に、フルートとピッコロが寂漠とした第1主題を歌う。金管楽器が晴れやかに登場すると、第1主題は力を取り戻し、感動的に最後の変奏へと辿りつく。ティンパニの4度連打を従え、ほとんど“マーラーらしからぬ”肯定的な大団円を迎えます。
マーラーはミルデンブルクへの手紙でこう語っています。
この楽章のモットーは、“父よ、私のこれらの傷を見てください。あなたのひとつの創造物を失わせないでください。”私は大体のところ、この楽章を“神が私に語ること”と名づけることが出来ると思います。これは、神がただ愛としてのみ把握されうるものなのだという意味からです。そして、このようにして、私の作品は、階段的な上昇で発展してゆくあらゆる段階を含む音楽的な詩となっているのです。それは、生命のない自然ではじまり、神の愛まで高められてゆきます。」
個別的な自然が、さらにもう一段階高次な“自然”である、人類普遍の「神の愛」にまで高められる。理性を超えた、超現実の領域まで音楽が到達するのです。
しかし、なんとマーラーはこの到達点を後の作品で否定していくことになります。この完成度の第3番ですら、よりマクロな「階段的な上昇発展」の過程の中では、中途の段階にすぎないのです…。
参考文献:
・Wikipedia - 交響曲第3番
・村井翔「マーラー」 ISBN:4276221889
・音楽之友社 マーラー ISBN:4276010411
・音楽之友社 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲 ISBN:4276130727
・グスタフ・マーラー―その人と芸術、そして時代 ISBN:4884706846
お勧めのディスク
バーンスタイン@NYPO
★★★★★
終楽章が美しすぎる…。バーンスタインが苦手な方にも是非聴いて欲しい。
もちろん追加予定。
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