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マーラー:交響曲第5番 
~破壊の序章~


  「アダージェット」ばかりが有名なこの第5番。マーラー音楽の入門にふさわしい作品でもあります。伝統と、それを破壊する力が爆発寸前で均衡し、高度な調和を見せています。5,6,7番は、“作品の人生”とも言うべき連続性を持っています。この力がついに爆発し、交響曲の規定を打ち毀すのが第6番、爆発の残骸をロマン派的世界観に基づいて皮肉たっぷりに再構築したものが第7番、という一連の作品の流れを捉えることが出来ます。人気のある作品なのでYouTubeに全編が流れています、映像と一緒に是非どうぞ。


第1楽章 「葬送行進曲」







 「精確な歩みで、厳粛に、葬列のように In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt.」と指定されている葬送ファンファーレで始まります。このファンファーレは交響曲第4番第1楽章でも姿を見せたものです。第4番では仄めかしに過ぎなかったこの動機が、第5番にして「葬送」の意味を明らかにするのです。あれは「葬送」だったのだ。実にアクロバティックな作曲の連関です。なおこの「タタタターン」というリズムは、かの「運命が扉をたたく」動機と類似したリズムです。同じ「5番」ということで意識していたのかも知れませんね。
 ファンファーレが劇的に額初すると、ヴァイオリンとチェロによって愁いのある葬送行進曲が苦しげに奏される。冒頭のファンファーレをA、これをBと捉えると、曲はABABCABCAという形式で捉えられます。Bには「亡き子をしのぶ歌」第1曲「いま太陽は晴れやかに昇る」の引用があります(歌詞はこちら)。トランペットのファンファーレによって開始する荒々しい中間部がC。死は荒れ狂う。ティンパニとトランペットのファンファーレが強引に割り込み、音楽は苦痛にのたうつ様に伸縮する。そのままAが再現され、最後の行進曲が少年鼓手を率いて進められる。悲愴にCが高まると、音楽は崩壊しファンファーレ(A)が孤高に鳴り響く。最後の部分のオーケストレーションはジョルジ・リゲティ好みの「音楽の空間化」(5番についての言葉参照)。

第2楽章







 怪獣映画のような荒々しい序奏。前楽章のCと雰囲気が似ています。第一主題はヴァイオリンによって勇壮に提示される。短めに展開処理がなされると、チェロによる第二主題。ヘ短調の憂鬱な葬送行進曲。第1楽章の旋律が用いられています。ハラハラと落ちる涙のような木管の対旋律。序奏と第一主題が回帰する。間奏としてティンパニのトレモロの上に、彷徨うように単旋律のチェロが歌う。第二主題によって音楽は切実に上昇を希求し、“きたるべき”輝かしいコラール主題が暗示される。しかしすぐに序奏と第一主題がかき消してしまう。第二主題が情熱的に展開され、突如コラールが現われる。実に感動的なコラールは不自然にディミヌエンドして終わってしまう。容赦なく第一主題が戻ってくると、音楽は崩壊してしまう。静かな胎動の中、曲はティンパニの一撃で終わる。

 この曲は「嵐のように激動して Stürmisch bewegt」という表記に始まります。この表記は第1番第4楽章で用いられていたものです。この楽章は第1番の到達点(「暗から明へ」)を否定していると考えられます。すなわち、第1番においては暗示された“きたるべき”コラール的なものが華々しくフィナーレを飾ったけれども、この第5番においては“きたるべき”コラールはフィナーレにはなりえない。第6番で否定される、伝統的な「暗から明へ」の交響曲の構成を、既にこの段階で否定しているのです。この強烈な伝統の否定は第5楽章でも強調されます。

第3楽章 スケルツォ







 18~19分に及ぶ長大なスケルツォ。ホルンの呼びかけに、楽しげなワルツ主題が現われる。テンポが落ちると鄙びたレントラー主題。この2つの主題がトリオをはさみ自由に変奏されていきます。ホルンが先導するトリオは牧歌的ながらも退廃的な不思議な美しさ。結尾は病的な明るさを持つもの。
スケルツォ楽章の諧謔的な雰囲気と、高度なポリフォニーは後の交響曲群でより発展されます。この5番ではまだ幾分生真面目な感じを受けますね。

第4楽章 アダージェット





 小さなアダージョの意。ハープと弦楽器のみで進められる。映画「ベニスに死す」でも用いられたように、劇的で美しい曲想は、万人受けするもの。対位法的に優れています。
絶妙に美しいこの楽章ですが、中間部の旋律は終楽章で「幻想交響曲」の「恋人の主題」のように、あえなく作曲家自身の手によってパロディ化されてしまいます。
 曲の解説は不要です。マーラーと同じ時代に活躍した、世紀末の画家たちの作品と一緒にお楽しみください。死と生、愛と別れ。


 ウォッツ(1817-1904) 「愛と生」

 ミレー(1829-1896)「オフィーリア」


 クリムト(1862-1918)「接吻」


 シーレ(1890-1918)「死と少女」


 なおこの第4楽章は、「リュッケルトの5つの詩」の「私はこの世に忘れられ(Ich bin der Welt abhanden gekommen)」と関連していると考えられます。




第5楽章 ロンド・フィナーレ







 ホルン、ファゴット、オーボエなどが断片的に主題を奏する。この部分のファゴットの音形は、『少年の魔法の角笛』から「高い知性への賛美」の引用です。村井翔氏が指摘しているように、ここでの皮肉は実に鮮やか。歌詞は、ナイチンゲールとカッコウの歌をロバの審査員が聞き比べ、ロバの審査員は単純なカッコウのコラールが「わしの高い知性にふさわしい」と表決を下す、というもの。カッコウの歌=コラールは、旧時代の手垢の付いたものとして否定されているのです。第5番におけるコラールの否定的な意味づけが実にさり気なく、巧みになされているのです。
 ロンド主題はホルンによる柔らかな民謡調のもの。チェロによってこれまた旧時代の産物、フーガ主題が提示されると、複雑なフーガが展開されます。ロンド主題、序奏の動機も加わり、ゴロゴロと異様なフーガが展開されます。アダージェットの主題も軽やかに登場します。ここらへんに、マーラーの自虐的な姿を見て取ることが出来ます。アダージェットの映画音楽的な、ある意味で俗な主題を、他人に突っ込まれる前にパロディ化しているのです。
 目まぐるしく音楽が展開され、全ての要素がフーガの渦に巻き込まれ高揚すると、音楽は静かな再構築へ向かいます。主にアダージェット主題が扱われ、これまでの動機と主題が迷いつつ省みられる。決心したように音楽が方向性を定めると、ついに“きたるべき”コラールの再現。ヴァイオリンによってコラールが切り上げられると、妙に浮ついたドンチャン騒ぎで曲を閉じる。この終わり方のために「終楽章が軽すぎる」という批判も当時なされました。

 例えばブルックナーの第5番のように、コラールで重々しく終わらないところに、さりげない反コラール=反体制を感じさせます。しかし、その反体制主義も「暗から明へ」の皮を被ることによって、とりあえず万々歳の大団円のフィナーレを迎えます。第5番には、形式が破壊される寸前の、危うい美しさがあります。しかしその破壊趣味は仄めかしに過ぎない。このバランス感覚が実に見事。

 第5番で暗喩された「暗から明」の否定は、第6番で徹底的に否定されます。そこには「アダージェット」のような官能的な美しさ、パロディの介入する余地は残されていないのです…。


参考文献:
 ・Wikipedia - 交響曲第5番
 ・村井翔「マーラー」 ISBN:4276221889
 ・音楽之友社 マーラー ISBN:4276010411
 ・音楽之友社 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲 ISBN:4276130727
 ・グスタフ・マーラー―その人と芸術、そして時代 ISBN:4884706846



お勧めのディスク


テンシュテッド@LPO
★★★★★

生き物のようにのた打ち回る旋律の歌い方が驚異的。バーンスタインより濃厚。ティンパニも爆裂していて打楽器奏者として嬉しい一枚。




追加予定。

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